移り香
いつもの風景だった。 警視庁の地下三階。そこにはたくさんの資料の山と数人の刑事。 一人は、調書を読みふけっている女。 一人は、爪を切っている男。 一人は、パソコンに向かって資料の整理をしている男。 一人は、ソファーに横になり高いびきを掻いている男。 そして、爪の手入れに勤しむ女。 そう、いつもの風景だった。
「あの〜、真山さん。ちょっと気になることがありまして、捜査に行きたいんですけど。」 「へぇ。行ってらっしゃい」 「…一緒に行ってくださらないのですか?」 「うん。行ってらっしゃい」 「真山さ〜ん、一緒に行ってくださいよ〜。私、ご飯おごりますから。」 「…もうその手には乗らない。お前一人でどうぞ」 「んも〜、真山さぁ〜ん」 柴田の変にいやらしい声が弐係に響く。 その耳障りな声を聞いて彩が面倒くさそうに口を開く。 「も〜、やかましいなぁ。一緒に行たったらええやん。真山さん」 「あのなぁ、木戸。お前俺が昨日どんな酷い目にあったか知らないの?」 「昨日?あぁ、そういえば昨日遅くに2人で捜査に行っとったなぁ」 「そう。こいつが『三十分で終わります。そのまま直帰でご飯おごりますからぁ』って言うから、一緒に行ってやったんだ」 「…何も柴田の物まねまでせんでも…熱演やな。」 「なのにコイツ、三時間もおんなじ所ぐるぐるぐるぐる回りやがって。挙句の果てに目撃者不在だぁ?いくら温和な俺でもね、怒るよ。マジで。」 「真山さんが温和…?」 そう小さく漏らしたのは近藤だったが、今の真山には聞こえなかったようだ。 「どこが三十分だよ?どこが直帰だよ?捜査終わったあとも調書見に結局ここ戻ってきやがって。 しかも『道わからないから付いてきてください〜』だって。何様なんだよ、お前は!」 話しているうちに、真山が再び怒りに達したらしい。 物凄い勢いで柴田の髪をかき回す。 「だから、昨日の事は謝ったじゃないですか〜。やめて下さいよ〜。真山さん。」 「お前馬鹿?ごめんで済んだらな、警察いらねぇんだよ。俺たち失業! だから俺は許さない。わかった?理解した?しーばーたぁー?」 「いたた、痛いです〜。判りましたから、やめてください〜。」 「ホントに反省してるのかなぁ〜?柴田君は?」 「し、してます。すみません。明日もご飯おごりますから。」 「…よし、カツな。」 そこで真山はようやく柴田を解放した。 柴田の髪型は、いつにもまして無残になっていた。
「も〜、真山さん。ちょっとは手加減してやりぃな。こんな頭じゃ、このこ外に出れんやろ?」 その柴田の惨状を見て彩があきれたように言う。 「いいじゃん、その方が。俺も連れ出される事ないし。その頭の悪臭を撒き散らす事ないし。平和じゃん。 あ、俺世界平和に貢献したんじゃない?ねぇ?」 一向に反省をみせない真山に彩は軽くため息をついた。 「柴田、ちょおこっちおいで」 綺麗に彩られた爪が手招きをする。 すると柴田は仔犬の様にぼてぼてとした独得の歩き方でこちらに来る。 彩はピンクの化粧ポーチから櫛を取り出し、柴田を自席に座らせた。 そして、母親が娘にしてやるように柴田の髪を梳いた。
「なんだか、小さい頃お母さんにやってもらったことを思い出します」 柴田が、静かな声で呟く。 彩は黙って頷いた。
その光景を、近藤もいつの間にか起きていた遠山も微笑ましく見守る。 真山だけは、興味なさそうに一人、煙草に火をつけていた。
「…よし、これでええやろ。」 彩に髪を梳いてもらっただけなのに、柴田の髪は随分綺麗になっていた。 「はい、どうもありがとうございました。」 「あんた、元々の髪質悪くないみたいねんから、ちゃんと毎日髪梳きィよ。」 「はい。努力してみます。」 「ふん、いくら綺麗に梳かしても、頭が臭いと、ねぇ?」 真山はまだ、憎まれ口をたたいている。
「柴田、じっとしとき」 彩はそれだけ言うと、再びポーチの中を探り始めた。 そして、取り出したのは銀色のアトマイザー。 それを空中に向かって二、三回噴霧する。
そこに広がるのは、控えめな石鹸の香り。 彩が香水をまいた中心地にいる柴田にほのかな香りをつける。
「ええやろ?この匂い。本当はな、清純派を装う時の合コン用なんやけどな」 彩が満足そうに笑う。 「本当にいい香りですね。あぁ〜トレビア〜ン」 柴田がお得意のあっちの世界に行き始めた。
「さ、これでエエやろ?柴田、真山さんと捜査に行ってきな」 途端に、真山がむせる。 「はぁ?何で俺が行かなくっちゃいけないんだよ?」 「ここには生憎柴田のお守りができる人がいないんです。係長を宜しく。真山さん」 彩がわざとらしく東京弁を使い、笑顔で真山に言い放つ。 それに続けとばかりに近藤・遠山も息をぴったりと合わせていった。 「「よろしく、真山さん」」 「…お前ら、なんか打ち合わせしただろ?」 「「してませんよ」」
またも近藤・遠山のユニゾン。真山の眉間に皺が寄る。 そんな様子の真山に柴田はゆっくりと近づき、真山のスーツの袖をくいっと掴んだ。 「ダメですか?真山さん」 滅多に見ることのできない綺麗な髪。 目は先ほどの真山との攻防のせいでまだかすかに潤んでいて、その目で自分を上目遣いで見ている。 そして、ほのかに匂う香水の匂い。 …そんないつもと少し違う柴田に自称「鉄壁のガード」を誇る真山の理性が崩れそうになる。 「お前、そんな顔で『ダメですか?』とか言うなよな〜」 「はい?」 「…向こう一週間、飯奢れ」 「え?」 「それが捜査に行く条件」 「…一週間ですかぁ〜?」 「何?なんか文句あんの?」 「…いえ。了解しました」 しぶしぶといった様子で柴田が折れる。 「はい、商談成立〜。ほら、柴田さっさと行くよ?早くしないと定時までに終わんないでしょ?」 そうと決まったら、真山は素早くコートを羽織り、エレベーターへと急いだ。 「真山さん、待ってくださぁ〜い」 柴田がのろのろと支度を始める。 その腕を彩が掴んで柴田の耳元で囁いた。
「柴田、アンタちゃんと真山さんに移り香つけんとあかんで」
「移り香、ですか?」 「うん。好きな男に自分の香水のにおいを移すんや。どうや?色っぽいやろ?」 「はぁ」
「しばたぁ〜?」 エレベーターから真山の声がする。どうやらお呼びのようだ。 「あっ、すみません。すぐ行きます」 柴田はいつものトートバックを抱えて、一度こけながらも真山のもとに向かった。 |