「ただいま」

 

 

ガコン。

自動販売機から出てきたのは愛用の煙草。

つい最近値上がりをしやがって、少し面白くない。

「これを機に禁煙したらいかがですか?」

そう嬉しそうに言うアイツの提案を秒速で却下した。

「も〜!煙草って、吸っている人より周りにいる人のほうが害が大きいんですよ〜」

もう何度も聞かされたそんな文句にしかめっ面になり、こう言った。

 

「じゃあ俺の傍にいなきゃいいじゃん」

 

それは全く本心ではなくて。

むしろ俺が一番恐れていること。

 

 

そんな俺の問いに、アイツは顔を真っ赤にして遠慮がちに答える。

「しょうがないじゃないですか。ここはもう、私の家でもあるんだから」

 

はじめは、そんなつもりはなかった。

ただの研修生で、ただの部下で。

いつしかそれが、かけがえのないものになっていって。

しまいには、一生を共にする相手になっていた。

 

アイツは、ただの寝床だった俺の部屋に住み着いた。

今ではあの粗末な部屋が俺の「家庭」だ。

 

それは、一番苦手で、一番必要としなかったもの。

けれども、きっと一番欲しくて、一番なくてはならなかったもの。

 

あたたかい、家庭。

 

 

掌で、買ったばかりの煙草を転がす。

アパートの扉の前に立つと、まだこの向かいの部屋にヤツがいそうな気がして眉間に皺を寄せた。

 

すると中から聞こえてきたのは、アイツの楽しそうな鼻歌。

それは音程がはずれ、出来損ないのカラスの鳴き声のようだったが、俺には充分な歌声だった。

「安心して、帰る場所があること」

それがわかれば充分だった。

 

 

ひとつ咳払いをして、扉を開ける。

昔の俺には必要なかった言葉。

 

 

「ただいま」