| 水族館の夜
カチャリと音がしたので、私はゆっくりと鍵を引き抜いた。 ハンカチにその鍵を包んで、綺麗に折りたたんだ。 そして、丁寧に鞄の内ポケットにしまい、漸くドアを開く。
重い扉を開いて広がった空間は、しんと静まり返っていて、少し寂しい。
「・・・お邪魔します」 小さく呟いて、誰もいない部屋に上がった。
板張りの床が、靴下越しに冷たかった。
まっすぐ向かった先は、大きな窓。 窓を覆うカーテンを掴み、音を立てて開ける。 窓の外の街頭が、暗い部屋を仄かに照らした。
足元に重たい鞄を置いて、部屋の中を振り返る。
部屋の中には、なんだか無愛想な家具たちがただ黙ってそこにいる。 なんだか、この部屋の住人とよく似ている気がして、少し笑ってしまった。
ゆっくりと、部屋の中の唯一の光源に近づいた。
青白い光がゆらゆらと微かに揺れている。
しゃがんで、力強く泳ぐ金魚と同じ目線になった。 色鮮やかで生命溢れるこの生き物は、この部屋にひどく不似合いな気がした。
「元気にしてましたか〜?」 水槽を指で軽くなぞった。 金魚はそんな私に見向きもせず、ふわふわと漂うように泳いでいる。 そんな様子ににっこりと微笑むと、水槽のそばにあった餌を手に取った。
こぽこぽと酸素を送る音が、この部屋の唯一の音だ。 その規則正しいリズムがとても気持ちよかった。
一度、餌を替えたことがある。 栄養と成分・添加物そして味などを充分吟味して選んだつもりだったのに、 金魚たちの食いつきが悪くて戻さざるを得なかった。
金魚たちは変化に対応できなかったのだろうか。 それとも、私が選んだと知って食べなかったのだろうか。
餌を指で少し摘み、パラパラと水槽に落とした。 数匹の金魚が、ぱくぱくと口を開けて餌に食いつく。
「やっぱり、ご主人様の選んだ餌の方がおいしいですか?」 静かに問いかけても、答えは返ってくるわけはなく。 もうひとつまみ、餌を落とした。
青い水槽と緑の水草、そして赤と白の金魚はとても綺麗で。 私はいつもこうして、見とれてしまう。
真山さんも、そうだったのだろうか。
朝倉との先の見えない闘いの中で、こうしてただ何かに見とれる瞬間はあったのだろうか。 なにも考えず、ただぼーっと。
あの真山さんが生き物を飼っているなんて、初めは少し意外な気がした。 けれど、今は納得できる。
妹さんの思い出を、生きている小さなものを、ずっと大切にすることで、 真山さんは負けなかったんだ。 ずっと、真山さんでいることが出来たんだ。
「・・・あなたたちは、幸せですね」
ずっと真山さんの生きる糧で、ずっと大切に守られてきた。 幸せと思い出の象徴として。 そして、唯一の安らぎとして。
こぽこぽと言う音がまた大きく聞こえてきて、なぜだか少し涙が出た。
いつの間にか、真山さんから鍵を受け取った時のことを思い出していた。 この場所で、私はこの金魚の生命を託されたのだ。 しばらく、この場所を動けなかったことを覚えている。 その時、受け取った鍵に残っていた真山さんの体温は、きっと、ずっと、忘れられない。
私は不思議なことに、今しみじみと真山さんが生きていた事を実感した。 そして、とても感謝した。 多分、神と呼ばれる不確かで何か大きいものに。 それと、朝倉に狙われ、操られた私が刺してしまったのに、それでも消えなかった強靭な生命に。
こんなに静かに涙が出たのは、初めてだった。 大きくて、暖かい何かが胸にじわりと溢れて、広がっていった。 じわじわと、波のように。
涙を拭うために、鞄からハンカチを出した。 鞄から出した時、ちゃりんと音がしたので、床を見ると鍵が落ちていた。 このハンカチが鍵を包んでいたことをすっかり忘れていたらしい。
屈んで鍵を拾うと、その鍵の冷たさにまた涙がぽたりと落ちた。
ゆっくりと立ち上がって、もう一度金魚を見下ろす。 ひらひらと優雅に泳ぐ金魚に、自然と笑みが零れた。
「・・・ありがとう」
小さく呟いて、手で涙を拭った。
「ご主人様、もうすぐこの部屋に戻ってきますからね」 明るい声で金魚に言い聞かせるように言う。 真山さんの退院の日は、もうすぐだ。
カーテンを閉めて、靴を履き、扉に手をかけた。 ゆっくりと後ろを振り返る。
部屋の中は相変わらず色味のない家具たちが、ぽつんと置いてある。 そして、それに不似合いな水槽。
けれど、その部屋全体が真山さんのような気がした。
ほんのりと輝く水槽は、真山さんの中の暖かさと一緒の温度を感じさせた。
「お邪魔しました」 小さく呟いて、誰もいない部屋を後にする。
扉を閉めて、それから掌にある冷たい鍵を見つめた。 もう、涙は出ない。
施錠をして、ハンカチに包んでまた仕舞う。 なくしたらきっと真山さんに怒られてしまうだろう。
向かった先は、もちろん病院。 金魚は今日も元気だったと真山さんに報告をしないといけない。 どうも、ちゃんと餌をやっているかどうかを疑われている節があるから。
・・・日付が変わる前に病室に着けたらいいなぁ。 |