櫻月
また、春が来る。
私は貴方に、また会える。
今年の桜は遅咲きで、 「少し遅刻ね」と私は呟く。
それでも見事な満開の花。優しい香り。 私は目を細めて、空を仰ぐ。
車椅子に乗ったまり子さんを押して、私はゆっくりと歩く。 あたたかい、春の一日。 寂しさと、穏やかさが同居する特別な日。
「おとーちゃん」 優しいまり子さんの声。 うーんと手を伸ばして、幹に触れる。
彼女の言う、「おとーちゃん」は、彼女の本当の父親なのか、それとも貴方なのか。 私はまだわからないでいる。 それでも彼女のまなざしに、どこか母性めいたものを感じてしまうのは私だけだろうか。 きっと、まり子さんは全てわかっている。
「おかーちゃん」 今度は私に微笑む。 私はしゃがんで、まり子さんと目線を同じくする。 「・・・なあに?」 私がそう尋ねると、まり子さんは少女のようにあどけなく笑う。 「おとーちゃん、今年も、きれい」 車椅子と同じ目線で花を見上げると、まるで桜に守られているようだ。 「・・・そうね」 私はそう言って、微笑んだ。
・・・私は上手に、笑えているのだろうか。
ゆっくりと手を伸ばし、私も幹に触れた。 あの人の手の感触を、私はもう覚えていない。 それが少し寂しかった。
目を閉じて、貴方を想う。 もう、何度そうして来ただろう。 けれど、決してそれは色褪せることなく。 むしろどんどんと鮮烈に私の中に根を下ろす。
よしよしと、まり子さんが私の頭を撫でてくれていた。 「おかーちゃん?」 「・・・ごめんね、いつも」 震える声しか出てこない。 まり子さんは何も言わず、そのまま撫でていてくれる。
「長瀬くん・・・あいたいよ・・・」
涙と共に出てきたのは、奇麗事ではない本音の部分。
思い出だけでは生きていけない。 支えていてくれる言葉は確かにあるけれど、 どうしようもない夜は、必ず訪れる。
かなしくて かなしくて あなたにあいたい。
不思議ね。 もう、どこにもいないはずなのに、貴方は私の中で大きくなる。 それは僅かな思い出。それに勝る強烈な想い。
もういない人間を理想化しているだけだと、誰かは言うでしょう。 いい加減前を見なさいと、誰かは叱るでしょう。 いつまでそんな事をしているかと、誰かは嘆くでしょう。
けれど、私の中で何一つ矛盾はないの。
知ってる? 永遠に届かない想いは、永遠に終わらない。 大きくなり、小さくなり、膨らんで、縮んで。 永遠に、私の中に生き続けるの。 磨かれて、研ぎ澄まされた、その小さな結晶を 貴方はなんて言うのかしら。
「綺麗だね」
きっと、そう言ってくれるわ。
薄紅色の花びらは、優しく私の上に降り注ぐ。 頬を撫でるように、優しく。
ごめんね、まだ泣き虫のままで。 ごめんね、まだ強くはなれない。 ごめんね、まだ貴方の事を愛しています。
いつまでも、貴方の優しさに甘えてしまう。 駄目な私で、ごめんね。
「おかーちゃん・・・」 もう一度まり子さんの声が聞こえて、私は顔をあげる。 「だいじょーぶ?」 「・・・ええ」 強がりではなく、そう言える。
大丈夫。 この寂しさは、誰かを愛している証拠だから。 私が、私を愛せている証拠だから。
「もう、行こうか?」 私がそう言うと、まり子さんは大きく頷いた。 それから儀式のように、樹を見つめる。 「・・・ばいばーい」 ひらひらと手を振るまり子さんの目は、少し寂しそうだ。 私はまた、ゆっくりと車椅子を押していく。
長瀬くん、此処が見えますか? 貴方に手を振るまり子さんが見えますか? それから、相変わらずな私のことが見えますか?
見えるでしょう? そっちはきっと、明るいのだから。 貴方のいた、あの場所よりもずっと。
そうならいいと、願っています。
「おかーちゃん」 施設に入る時に、まり子さんが何かに気づいた。 「なあに?まり子さん」 私かかがんで尋ねると、まり子さんのまだ若い手が私の肩に伸びる。 「・・・あ」 上手く掴めないまり子さんに代わって、自分の手を伸ばした。
薄紅色の、可愛い桜の花びら。
「おとーちゃんも、いっしょにいたいって」 嬉しそうにそう言うまり子さんに、私はまた笑って、そして少しだけ涙が出た。
また、来年。
きっとこの季節に、貴方に会える。
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