名前 

 

 

 

「引きなさい!!まり子」

耳に残るのは、その声。

それから恐ろしくも静かな、銃声。

 

あの人の、そして私の人生はそこで、止まった。

 

 

あれから数日が経ったのであろう。

自分ではわからない。

実感がないのだ。何もかにも。

 

あの日から私は泣いていない。

 

 

 

カレンダーについている小さな赤い丸。

「まり子さんを施設にお見送り」

自分の字で走り書きが書いてある。

あの人とのたった一つの約束。

名前 

 

 

「引きなさい!!まり子」

耳に残るのは、その声。

それから恐ろしくも静かな、銃声。

 

あの人の、そして私の人生はそこで、止まった。

 

 

あれから数日が経ったのであろう。

自分ではわからない。

実感がないのだ。何もかにも。

 

あの日から私は泣いていない。

 

 

 

カレンダーについている小さな赤い丸。

「まり子さんを施設にお見送り」

自分の字で走り書きが書いてある。

あの人とのたった一つの約束。

それだけは、果たさなければならない。

私はコートを羽織って外に出た。

 

 

外は気持ちのいいくらいに晴れていた。

あの人がいなくても、こんな風に毎日は過ぎて行く。

聞いた事のあるフレーズが頭をかすめた。

空しかった。

零れそうになった涙を堪えて、私はまり子さんの元へと急いだ。

あの人を産んで、あの人の命を絶ったまり子さんの元へ。

 

 

 

まり子さんは眠っていた。

私は小さくため息をついて、お見舞いの人の為に置いてある椅子に腰を掛けた。

気持ち良さそうに眠っているまり子さんの顔をそっと見つめた。

彼女は今、どんな夢を見ているのだろう。

 

あの人に良く似ている、いえ、あの人が良く似ていた目元。

そこを見るだけで少し切なくなった。

 

「…ん…」

まり子さんの目が薄く開いた。

私は、気持ちを押し殺すようにわざと明るい声でまり子さんに声を掛けた。

「まり子さん、おはようございます」

まり子さんは首だけをこちらに向けた。

まだ眠そうな瞳は、やっぱりあの人を思い起こさせて、つらい。

 

「…あの子は?」

一瞬、呼吸が出来なかった。

彼女の言う「あの子」・・・それはあの人を指しているのだろうとすぐにわかったから。

「まり子さん・・・?」

「笙一郎は?」

どきどきした。胸が。

だって、まり子さんは今あの人を「笙一郎」なんて呼ばないはずだ。

彼女は、置いてきてしまった。

記憶を、過去を。

全てを忘れて、子供のように無邪気に毎日を過ごしていたはずだ。

自分の生んだ息子のことも忘れて。

 

「まり子さん?」

もう一度、名前を呼ぶ。

するとまり子は懐かしそうに目を細めて語りだした。

 

「あの子はね、生まれた時本当にちっちゃかったんだ。

今でも忘れちゃいないよ。予定日よりも随分前に生まれてきてね。1852グラム。

当たり前だと思ったね。あたしさ、あの子がおなかにいた時もめちゃくちゃなことやってたから。

煙草吸ったり、酒飲んだり、セックスしたり。

・・・しょうがなかったんだ。あたしはそれしか生きる方法を知らなかったからね

きっとさ、早く出たかったんだろうね。こんな最低な女の腹の中から」

 

私は言葉を挟めない。

目の前で人が死んだショックで、もしかしたら色々と思い出したのかもしれない。

 

「保育器の中でさ、それでも一生懸命生きてるあの子を見てさ、こんなあたしでも自覚っていうのが出来たよ。

母親の自覚。

それで名前をつけたんだ。「生きる」と書いて『生一郎』」

「・・・え?」

思わず言葉が出てきてしまった。

だって、私が知っている「長瀬ショウイチロウ」は「笙一郎」という名だったから。

 

「いい名前だろう?でもね、なんかさぁ、あんまりにも簡単すぎると思ったんだ。

だって、小学生でも書けるだろう?『生一郎』なんて。

だからさ、頭に竹を乗っけて『笙一郎』にしたんだ。その方がかっこいいと思ってさ」

なるほどと私は頷いた。

「・・・あの子の父親がね、頭のいい人でねぇ」

まり子さんの表情が一段と柔らかになる。

 

「あの人と知り合ったのは、お店でだった。

最初はなんて嫌なヤツだと思ったよ。だって、こっちがいくら喋りかけてもうんともすんとも言わないでさ。

でもさ、あとでわかったんだ。

あの人は頭が良かった。・・・きっと頭が良すぎたんだ。

全てをね、世の中の全てをわかりすぎたんだ。

でも、それを受け止めるにはあの人は弱すぎた。

別にね、繊細とかそういう人じゃなかったんだけど、それでも弱かったんだろうね」

 

昔、モウルから父親の事を微かに聞いた記憶がある。

彼自身、父親の記憶がないと言っていたので、それはまり子さんから聞いた事なのだろう。

モウルから聞く彼の父親は全てにおいて素晴らしく、完璧だった。

 

「きっと、あの人はあたしの事なんて愛してなんかいなかったんだ」

まり子さんの瞳が悲しそうに潤んだ。

 

「でもね、あたしはあの人が好きだった。愛していた。

夜、寂しいといってあたしに縋りつくあの人を。

じゃなかったら、あの子を生んだりなんてするもんか」

まり子さんの手がしっかりとシーツを握っていた。

 

「保育器でね、小さいながらにおぎゃあ、おぎゃあって泣くあの子に生きて欲しいって思ったよ。

どんな風でも構わない、生きて欲しいって。だから、『笙一郎』なんだよ」

 

「・・・『笙』って知ってるかい?」

不意に尋ねられ、私は首を横に振った。

「日本の楽器なんだよ。竹がいっぱいついてる笛でね、吹くとその竹から音がいっぱい出るんだ。ふぁーって」

「そうなんですか」

「綺麗な音なんだよ。一回、テレビで見ただけなんだけどね。

・・・まるで、あの人の鳴き声みたいにきれいな音」

 

私は、どきりとした。

目の前に長瀬くんの泣き顔が浮かぶ。

聞いた事のない笙の音色が私の耳に聞こえた気がした。

 

「丁度いいと思ったんだ。あの人の子供の名前に。

・・・でも、失敗だったんだよ。実は」

「どうしてですか?」

「『笙』って言う字ね、『細い』とか『小さい』って意味があるらしくて・・・

人の名前には向かないよね」

まり子さんはそう言って苦々しそうに笑った。

 

「・・・いいえ」

私は首を振った。

「素敵なお名前だと思います。『長瀬笙一郎』さん」

まり子さんは少してれた顔で「ありがとう」と私に言った。

 

「あんたは?」

「はい?」

「名前だよ、あんたの名前」

「優希です」

「ゆうき?どんな字書くの?」

「人偏に憂い・・・」

「そんなんじゃわかんないよ。えっと・・・ここに書いて」

ここと、まり子さんが枕元にあったメモ帳を指した。

私は自分の名前を走り書きする。

「優希」

父親の名前から一字貰ったその名前。

そのせいで自分の名前が酷く嫌いになったときもあった。

母親の一字を貰った聡志の名をうらやんだ事さえある。

 

その名を見て、まり子さんは言った。

「いい名前だね。あんたも」

「・・・そうですか?」

「うん。『優しい希望』。いい名前じゃないか」

 

「優しい希望・・・」

私はその言葉を繰りかえして言った。

 

そして、想像してみる。

私が生まれて、名前を考える両親。

やさしいきぼう。

そんな想いを込めて、わが子に名付けてくれる両親。

 

その時は、きっとこんな状況になるなんて誰もが思っていなかったはず。

いえ、その時も、あの時も、今も。

あんなことになるなんて誰も願ってなどいなかったのだろう。

きっと父でさえ。

ただ、私を愛したいと。私にも愛されたいと。

願ったのはそれだけ。

 

まり子さんも、長瀬君も。

有沢君も、ご両親も。

世界中のどの子供も、どの親も

 

ただ、愛したいだけなのだ。愛されたいだけなのだ。

それだけなのに、不器用な私たちはその方法を間違ってしまうのだ。

 

 

いつの間にか、私は涙を流していた。

まり子さんが優しい眼で私を見ていてくれる。

あの人に逢いたくなった。

 

「ねぇ、あんた。ウチの息子なんでどう?

あの子さ、いつの間にか弁護士になんてなっちゃって。

偉くなんてならなくてもいいのにさ。

優しい子なんだよ。

弁護士なんかじゃなくっても、あの子は、私の誇りなんだ」

 

 

長瀬くん、ねぇ聞いてる?

誇りだって。あなたのことが誇りだって。

まり子さんは、あなたを愛しているよ。

もう、手遅れだなんて言わないで。

あなたは、ちゃんと愛されたこどもだったのよ?

 

 

「まり子さん・・・」

「なんだい?」

「いまだけ、でいいんです。『お母さん』って呼んでもいいですか?」

まり子さんが優しく笑った。

「いいよ。あたしでよかったら」

 

私は泣いた。

泣いたというよりは「泣けた」といった方が正しいかもしれない。

一人だと思ってた。ずっと。

けれども、私は一人なんかじゃない。

ずっと育ててくれた、両親や痛みを分け合えたあなたたちがちゃんとここに、いる。

それがやっとわかった。だから泣いた。

 

私は明日からも生きていかなくちゃならないから。

 

 

「お母さん・・・」

「なんだい?」

まり子さんがその呼び名にくすぐったそうに笑った。

 

「ありがとう」

 

 

 

結局、その日はまり子さんを施設に送り出すことは出来なかった。

そして、翌日いつものように私を「おかあちゃん」と呼ぶまり子さんを、私は心から愛しく思った。

 

「優しい希望」

私は、この名前と共に生きていく。

あなたたちに恥じないように。

 

それだけは、果たさなければならない。

私はコートを羽織って外に出た。

 

 

外は気持ちのいいくらいに晴れていた。

あの人がいなくても、こんな風に毎日は過ぎて行く。

聞いた事のあるフレーズが頭をかすめた。

空しかった。

零れそうになった涙を堪えて、私はまり子さんの元へと急いだ。

あの人を産んで、あの人の命を絶ったまり子さんの元へ。

 

 

 

まり子さんは眠っていた。

私は小さくため息をついて、お見舞いの人の為に置いてある椅子に腰を掛けた。

気持ち良さそうに眠っているまり子さんの顔をそっと見つめた。

彼女は今、どんな夢を見ているのだろう。

 

あの人に良く似ている、いえ、あの人が良く似ていた目元。

そこを見るだけで少し切なくなった。

 

「…ん…」

まり子さんの目が薄く開いた。

私は、気持ちを押し殺すようにわざと明るい声でまり子さんに声を掛けた。

「まり子さん、おはようございます」

まり子さんは首だけをこちらに向けた。

まだ眠そうな瞳は、やっぱりあの人を思い起こさせて、つらい。

 

「…あの子は?」

一瞬、呼吸が出来なかった。

彼女の言う「あの子」・・・それはあの人を指しているのだろうとすぐにわかったから。

「まり子さん・・・?」

「笙一郎は?」

どきどきした。胸が。

だって、まり子さんは今あの人を「笙一郎」なんて呼ばないはずだ。

彼女は、置いてきてしまった。

記憶を、過去を。

全てを忘れて、子供のように無邪気に毎日を過ごしていたはずだ。

自分の生んだ息子のことも忘れて。

 

「まり子さん?」

もう一度、名前を呼ぶ。

するとまり子は懐かしそうに目を細めて語りだした。

 

「あの子はね、生まれた時本当にちっちゃかったんだ。

今でも忘れちゃいないよ。予定日よりも随分前に生まれてきてね。1852グラム。

当たり前だと思ったね。あたしさ、あの子がおなかにいた時もめちゃくちゃなことやってたから。

煙草吸ったり、酒飲んだり、セックスしたり。

・・・しょうがなかったんだ。あたしはそれしか生きる方法を知らなかったからね

きっとさ、早く出たかったんだろうね。こんな最低な女の腹の中から」

 

私は言葉を挟めない。

目の前で人が死んだショックで、もしかしたら色々と思い出したのかもしれない。

 

「保育器の中でさ、それでも一生懸命生きてるあの子を見てさ、こんなあたしでも自覚っていうのが出来たよ。

母親の自覚。

それで名前をつけたんだ。「生きる」と書いて『生一郎』」

「・・・え?」

思わず言葉が出てきてしまった。

だって、私が知っている「長瀬ショウイチロウ」は「笙一郎」という名だったから。

 

「いい名前だろう?でもね、なんかさぁ、あんまりにも簡単すぎると思ったんだ。

だって、小学生でも書けるだろう?『生一郎』なんて。

だからさ、頭に竹を乗っけて『笙一郎』にしたんだ。その方がかっこいいと思ってさ」

なるほどと私は頷いた。

「・・・あの子の父親がね、頭のいい人でねぇ」

まり子さんの表情が一段と柔らかになる。

 

「あの人と知り合ったのは、お店でだった。

最初はなんて嫌なヤツだと思ったよ。だって、こっちがいくら喋りかけてもうんともすんとも言わないでさ。

でもさ、あとでわかったんだ。

あの人は頭が良かった。・・・きっと頭が良すぎたんだ。

全てをね、世の中の全てをわかりすぎたんだ。

でも、それを受け止めるにはあの人は弱すぎた。

別にね、繊細とかそういう人じゃなかったんだけど、それでも弱かったんだろうね」

 

昔、モウルから父親の事を微かに聞いた記憶がある。

彼自身、父親の記憶がないと言っていたので、それはまり子さんから聞いた事なのだろう。

モウルから聞く彼の父親は全てにおいて素晴らしく、完璧だった。

 

「きっと、あの人はあたしの事なんて愛してなんかいなかったんだ」

まり子さんの瞳が悲しそうに潤んだ。

 

「でもね、あたしはあの人が好きだった。愛していた。

夜、寂しいといってあたしに縋りつくあの人を。

じゃなかったら、あの子を生んだりなんてするもんか」

まり子さんの手がしっかりとシーツを握っていた。

 

「保育器でね、小さいながらにおぎゃあ、おぎゃあって泣くあの子に生きて欲しいって思ったよ。

どんな風でも構わない、生きて欲しいって。だから、『笙一郎』なんだよ」

 

「・・・『笙』って知ってるかい?」

不意に尋ねられ、私は首を横に振った。

「日本の楽器なんだよ。竹がいっぱいついてる笛でね、吹くとその竹から音がいっぱい出るんだ。ふぁーって」

「そうなんですか」

「綺麗な音なんだよ。一回、テレビで見ただけなんだけどね。

・・・まるで、あの人の鳴き声みたいにきれいな音」

 

私は、どきりとした。

目の前に長瀬くんの泣き顔が浮かぶ。

聞いた事のない笙の音色が私の耳に聞こえた気がした。

 

「丁度いいと思ったんだ。あの人の子供の名前に。

・・・でも、失敗だったんだよ。実は」

「どうしてですか?」

「『笙』って言う字ね、『細い』とか『小さい』って意味があるらしくて・・・

人の名前には向かないよね」

まり子さんはそう言って苦々しそうに笑った。

 

「・・・いいえ」

私は首を振った。

「素敵なお名前だと思います。『長瀬笙一郎』さん」

まり子さんは少してれた顔で「ありがとう」と私に言った。

 

「あんたは?」

「はい?」

「名前だよ、あんたの名前」

「優希です」

「ゆうき?どんな字書くの?」

「人偏に憂い・・・」

「そんなんじゃわかんないよ。えっと・・・ここに書いて」

ここと、まり子さんが枕元にあったメモ帳を指した。

私は自分の名前を走り書きする。

「優希」

父親の名前から一字貰ったその名前。

そのせいで自分の名前が酷く嫌いになったときもあった。

母親の一字を貰った聡志の名をうらやんだ事さえある。

 

その名を見て、まり子さんは言った。

「いい名前だね。あんたも」

「・・・そうですか?」

「うん。『優しい希望』。いい名前じゃないか」

 

「優しい希望・・・」

私はその言葉を繰りかえして言った。

 

そして、想像してみる。

私が生まれて、名前を考える両親。

やさしいきぼう。

そんな想いを込めて、わが子に名付けてくれる両親。

 

その時は、きっとこんな状況になるなんて誰もが思っていなかったはず。

いえ、その時も、あの時も、今も。

あんなことになるなんて誰も願ってなどいなかったのだろう。

きっと父でさえ。

ただ、私を愛したいと。私にも愛されたいと。

願ったのはそれだけ。

 

まり子さんも、長瀬君も。

有沢君も、ご両親も。

世界中のどの子供も、どの親も

 

ただ、愛したいだけなのだ。愛されたいだけなのだ。

それだけなのに、不器用な私たちはその方法を間違ってしまうのだ。

 

 

いつの間にか、私は涙を流していた。

まり子さんが優しい眼で私を見ていてくれる。

あの人に逢いたくなった。

 

「ねぇ、あんた。ウチの息子なんでどう?

あの子さ、いつの間にか弁護士になんてなっちゃって。

偉くなんてならなくてもいいのにさ。

優しい子なんだよ。

弁護士なんかじゃなくっても、あの子は、私の誇りなんだ」

 

 

長瀬くん、ねぇ聞いてる?

誇りだって。あなたのことが誇りだって。

まり子さんは、あなたを愛しているよ。

もう、手遅れだなんて言わないで。

あなたは、ちゃんと愛されたこどもだったのよ?

 

 

「まり子さん・・・」

「なんだい?」

「いまだけ、でいいんです。『お母さん』って呼んでもいいですか?」

まり子さんが優しく笑った。

「いいよ。あたしでよかったら」

 

私は泣いた。

泣いたというよりは「泣けた」といった方が正しいかもしれない。

一人だと思ってた。ずっと。

けれども、私は一人なんかじゃない。

ずっと育ててくれた、両親や痛みを分け合えたあなたたちがちゃんとここに、いる。

それがやっとわかった。だから泣いた。

 

私は明日からも生きていかなくちゃならないから。

 

 

「お母さん・・・」

「なんだい?」

まり子さんがその呼び名にくすぐったそうに笑った。

 

「ありがとう」

 

 

 

結局、その日はまり子さんを施設に送り出すことは出来なかった。

そして、翌日いつものように私を「おかあちゃん」と呼ぶまり子さんを、私は心から愛しく思った。

 

「優しい希望」

私は、この名前と共に生きていく。

あなたたちに恥じないように。