| March
「おはよーさん」 弐係に彩の声が響いた。 始業時刻きっちり。 いつもの彼女の出勤時刻は正確だ。
「おはようございます」 いつも一番に挨拶を返すのは律儀な近藤。 そして無愛想な真山が気分によって挨拶を変えて返してくる。 それが彩の日常だった。
しかし、今日は少し違った。
「おはよーございます」 滅多に聞こえない女の声がする。柴田の声だった。
「柴田どうしたん?今日はえらい早いご出勤やんかー」 彩はその声に驚きつつ、柴田の隣のデスクに鞄をどすんと置いた。 にこにこと笑顔のままの柴田が彩を見上げている。 「早いですか?始業時間きっちり、ですよ?」 柴田が彩の嫌味に気づく気配はない。
彩が柴田の正面のデスクに目を遣ると、いつもいる男の姿が今日はなかった。 「あれ?真山さんは?」 柴田に尋ねると、表情を少し曇らせて彼女は答えた。 「真山さんは、今日お休みです」 子供が拗ねているような、そんな表情だった。 「へ〜、有給かいな。珍し」 漸く彩が自分の席に腰を下ろすと、安物のチェアがキィと耳障りな音を立てた。
ちらりと柴田の方を盗み見ると、机いっぱいに書類を広げている。 「なんや。真山さんは優雅にお休み取ってんのに、柴田はお仕事ぎょーさんあるんやな」 「はい…書類が溜まってしまって」 沈んだ表情の柴田がくるりと彩の方を向いて答える。 「…真山さんに怒られてしまいました」 わかりやすく落ち込んでいる柴田を見て、彩は笑ってしまう。 「そうなんかー。かわいそうになぁ」 喉の奥でくっくと笑いながら、柴田の頭を撫でる。 「真山さん、自分がいたら結局捜査に行っちゃうからって…今日は休んでいるんです」 ああ、と口には出さずに納得して、彩は柴田の髪をもう一度撫でた。
今日の柴田の髪はとても綺麗だ。 かすかな香りが彩の鼻腔をくすぐっていく。
「じゃあ、頑張って今日中に書類終わらせんとな」 「はいっ!刑事魂です!!」 気合の入った表情に変わり、柴田は真剣な顔をしてまたデスクに向かった。
柴田の黒い髪が一房、するりと肩から滑り落ちた。 その様子を彩は横目で追った。 柴田の髪は洗っているときに限って言えば、美しい。 あまり洗っていないからだろうか、ぱさつきがなく艶々としている。 彩はカラーリングを繰り返して痛んでいる自分の髪を摘んでみた。 ため息を一つついて、柴田のほうに向き合う。
「柴田、アンタうっとおしくないん?その髪」 声をかけると、柴田が顔を上げた。 「髪ですか?」 「そ。ちょっと待ち」 彩はごそごそと自分の鞄を漁り、豹柄のシュシュを取り出した。 「これでくくったるわ。かわいいやろ?」 「いいんですか!?ありがとうございます」 彩の言葉に柴田は嬉しそうに笑った。
彩の手が、ゆっくりと柴田の髪を掴む。 「…あ、彩さんいい匂いしますね」 柴田が呟くように言った。 「香水やろ?手首につけとるからな」 彩は手櫛で綺麗に整えて、シュシュで髪をまとめた。 「香水って、なんだかオトナの女って感じしますね」 「あんたもつけぇな。真山さんびっくりさせたり」 横からほつれていないかチェックして、彩は柴田にOKを出した。 「ありがとうございます。…香水つけたら真山さんびっくりしますかねぇ〜?」 自分の髪型を確認しながら、柴田は彩を見上げた。 「びっくりするやろ〜。でもま、アンタはこのままの方がええかもしれんけどな」 にやにやと笑いながら、彩は自分のデスクにもどった。 「…このままの方がいいですか?」 柴田は驚いた表情で彩を見つめた。 「そや。アンタ、真山さんのにいするやん。そのままでええって」 彩は平静に言った。 「え!?」 柴田はあわてて自分の肩を鼻に寄せ、くんくんとにおいを嗅いでる。 「…な?するやろ?」 「自分じゃわからないです…煙草ですかね…?」 困ったような顔で、柴田は答える。 「煙草だけやなくて…アンタ朝からやらしーことして来たんとちゃうの?」 「し…してません!」 にやにやと笑う彩に、真っ赤な顔の柴田が反論する。
どーだか。 彩は口に出さずに、ただ笑った。
柴田は赤い顔のまま、もう一度自分の肩口のにおいをくんくんと嗅いでいる。 そして、大きく深呼吸するようにゆっくりとにおいを吸い込む。 「どう?真山さんのにおいするやろ?」 彩の問いかけに、柴田は首を静かに横に振った。 「わかりません。でもちょっと…嬉しいですね」 言いながら自然と笑みの零れる柴田が、とても可愛く見えた。
彩は手を伸ばして、もう一度男のにおいの染み付いている柴田の頭を撫でた。
自分のにおいなんて、わからないものだから 柴田が自分の中にある真山のにおいが嗅ぎ分けられないのは、 きっとそれだけ二人は同化しているのだろう。
「はよ書類終わらさな、また真山さんに怒られるで〜」 茶化すように柴田に言うと、柴田はあわてたようにまた仕事に戻る。 早く終わらせたらな、真山さんがかわいそうやからな。 心の中でまた呟いて、彩はほんの少しだけ寂しくなって、それ以上に嬉しくなった。
「春はもうすぐやなぁ〜」 誰にともなく呟くと、また弐係には静けさだけが残った。 |