蜘蛛の絲
「・・・もう、ダメだ・・・」
小火を出した母を見て、僕はそう呟いた。
絶望なんて、慣れていたはずだった。 僕の人生のほとんどは、いつもそれに満ちていた気がしたから。 絶望の先にある未来を信じて、僕は生きてきたのだ。 明るいものではない。 暗くなければそれでよかった。
君という明るいものに、少しでも近づければそれでよかったのに。
いつも、そうだ。 僕を追い詰めるのは、いつになってもお母ちゃん。
追い詰めて、追い詰めて、追い詰めて。 ようやく這い上がった僕を、また追い詰めて。 いつもあなたははそうだった。 当たり前の顔をして、僕の日常を、幸せを、壊していく。
けれども、どうしてだろう。 僕は、決してあなたの仔に生まれなければ良かったとは思わない。 他の母親を羨んだりしても、それでも、あなたの仔に生まれてこなければとはどうしても思えなかった。 醜いまでに執着していた。 あなたの子供であることに。 憎んでいても、連絡を絶っていても、それでも。 僕を産んでくれたのも、小さいけれど幸福をくれたのも、赦しを請う言葉を聞きたいのも、 僕という存在を認めて欲しかったのも、抱きしめて欲しかったのも、全て、あなただったからだ。
そのあなたは、もう僕のことがわからない。 置き去りにされても、いつかは戻って来てくれた。 病院に押し込められても、入院費は払ってくれた。 僕が自立をした後も、男に捨てられるたびに甘い声で僕に頼ってきた。 あなたはどんな状況にあろうとも、僕を忘れる事はあっても、最後は思い出してくれていたのに。
酷いよ。 もう、僕のことが判らないなんて。 存在すら、産んだ事すら覚えてないなんて。 母親である自分の存在を消して、少女のように微笑むだけなんて。
どうすればいい? 僕は、どこに向かったらいい? ねえ、答えてくれよ。お母ちゃん。
・・・限界だ。 助けて。 お願い、僕を助けて。
一回、断られたじゃないか。 聡志が申し訳なさそうに言ってたじゃないか。 「姉さんの病院も、ベッドがいっぱいみたいで・・・」って。 冷静な、もう一人の僕はそう言うけれど。 子供の、「モウル」と呼ばれた頃の僕が言い返す。
「女神なんだ。優希はぼくの女神なんだ。 助けてくれる。 あの時も、助けてくれたんだ。 僕を、一瞬でも幻想でも救い出してくれたんだ」
そう、彼女は僕にとって「蜘蛛の絲」。 救いに通じるたった一本の、細くて綺麗な僕の希み。
強く引けば、千切れてしまう。 掴んでいなければ、風に攫われてしまう。 危ういけれど、儚いけれど。 僕にとっては唯一の希望。
優希、君なら僕を助けれくれるだろう?
命を絶とうとしている今、はっきりと判る。
あの時、限界だったのは、きっと母親の事ではなくて、君に逢いたいと思う僕の気持ちだったのだ。 母親の事を口実にして。 僕が助かりたったのは、あの過去の亡霊たちからだ。
近づきすぎてしまったから。 手の届く所に君を感じてしまったから。 もうきっと、タクシーの窓から君を見るだけでは満足できなくなっていたんだ。 暴走した行き場のない想いを、君に全部受け止めて欲しかったんだ。 資格も、度胸もないくせに。
そんな自分に吐き気がする。 昔、僕は君を救えなくって地獄に落ちた。 君を救えなかったくせに、都合のいいときにだけ君に縋るなんて。 慰めのためだけに、君を利用していた君の父親とどこが違うのだろう?
自分だけ助かろうとしていた僕は、まさに蜘蛛の絲で助かろうとしている罪人そのものだった。
そして、今ならはっきりとわかる。
僕が犯してしまった罪は、君の父親を殺そうと計画した事ではなく、人を何人も殺めてしまった事ではなく。 16年前、君を助けてあげられなかったこと。 そして、君に助けを求めてしまったこと。
どうしてあの時、痴呆になった母と二人命を絶たなかったのかを、今になって後悔している。
気がつかなかったんだ。 君も地獄にいたのを。 一緒に助けを求めていたのを。 助け合って這い上がらなければ、決して天国になんていけないのを。
気がつかなかったんだ。 蜘蛛の絲なんて、初めから僕の幻想だったということを。
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