金魚

 

 

 

あれは、厄神島から帰って来て、そんなに日が経っていなかったある日。

いつもの様に、私は真山さんと事件現場に行っていた。

私はあちこちを見て回り、真山さんは少し離れていたところで、煙草を吸っていた。

 

その現場は寂れた駐車場で、私は車の大きさに合わせて引いてある白いラインをぼんやりと見つめていた。

ぺち。

僅かな衝撃と小さな音が響いた。

ゆっくりと顔をあげてみると、すぐ前に真山さんが立っていた。

 

「・・・なんかあったのか?」

「え?あ、手掛かりですか?」

真山さんの顔が何故か少し厳しく見えて、私は慌ててしまう。

「そうじゃなくって…腹でも痛えのか?」

「お腹・・・ですか?特に・・・」

真山さんが何を言っているのか分からなくて、私はぽかんとしてしまった。

「他は?」

真山さんの手が、指に挟まれている煙草ごと下ろされて、細い煙がその跡を描いた。

「体は特に・・・どこもなんともありませんが」

見あげるような格好で真山さんの顔を見ると、真山さんはいつもの表情をしていた。

「頭だけか。おかしいのは」

「・・・どういう意味ですか?」

「そのまんまの意味」

そう言って、真山さんは煙草をもう一度咥えた。

「ひっどーい」

私は拗ねてそっぽを向いた。

しかし、次の瞬間、また真山さんの方に向きを戻した。

「真山さん」

「んー?」

「どうしてそう思ったんですか?」

真山さんは何も答えずにちらりと私の方を見た。

「別に?」

「別に・・・ですか?」

真山さんの唇から細い煙が吐き出される。

 

「・・・お前さ、今日全然事件の事考えてないでしょ?」

 

どきりとした。

その感情がそのまま顔に出たのだろう。

真山さんが満足そうに言った。

「図星?」

私は何も答えを返せなかった。

「どうした?めずらしいじゃん?」

「・・・すみません・・・」

ようやく口から出た言葉がそれだった。

「別に謝ることじゃないんじゃないの?

ウチの係でさ、事件の事年がら年中考えてんの、キミだけだよ?きっと」

真山さんはそう言ってくれたけれど。

私はなんだか恥ずかしくて、俯いてしまった。

 

肩にかけていた鞄の取っ手をぎゅっと握る。

今日は、この鞄がとてつもなく重い。

 

「他の事が気になるならさ、今日はもう帰らない?」

その提案に私は慌てて顔を上げる。

真山さんは自分の腕時計を眺めて言った。

「今日は誰かさんが遅刻してきてくれたから、もう4時過ぎてるし。ね」

「え・・・でも・・・」

「おっ。我ながらいいアイディアじゃん。そうと決まったらとっとと帰りましょ〜」

私の意見も聞かずに、真山さんは楽しそうに出口の方に歩いていった。

 

早く帰れる口実が出来て嬉しいのか、

それとも、わかりにくいけれど私に気を遣ってくれているのか、私には分からなかった。

 

その背中を見ながら、私は自分の鞄の内ポケットのチャックを開けた。

手を入れると、指先に冷たい金属が当たる。

それを握り締めると、私は真山さんに向けて駆け出した。

 

「真山さん!」

自分でも驚くほど大きな声で、真山さんを呼び止めた。

煙草の煙と一緒に、真山さんがこちらを振り返った。

「何?」

振り返った拍子に目に煙が入ったのか、真山さんは目を少し細めた。

私は、意を決して真山さんの正面に立った。

 

硬く握っていた掌をゆっくりと開く。

私の手には銀色の鍵が、ひとつ。

 

その手をゆっくりと真山さんの方に差し出す。

少し手が震えていたかもしれない。

 

「あの・・・これ・・・お返しします」

頑張って真山さんの目を見て言った。

「ずっと・・・お返ししようと思っていたんですが、中々言い出せなくてですね…遅くなってすみません」

少し嘘だ。

それでも、昨夜からずっと考えていた台詞だった。

事件の事まで頭に回らない位に。

 

真山さんは何も言わずに、私の顔をじっと見ていた。

そして、小さく笑った。

 

「お前さぁ、ちゃんと餌やってくれた?俺の入院中に」

「えっ?」

「俺んちの金魚」

「ああ、そういえばそんな話も・・・」

「・・・ってことはやってねえな?餌」

「いえ。ちゃんとあげてましたよ〜?」

「毎日?」

「・・・は、ちょっと無理でしたけど」

べちん

「あいた」

「言ったじゃん。俺頼んだでしょ?キミに」

「ですから〜、毎日は無理でしたけど、極力あげましたよ?」

「何だよ、逆ギレ?」

「真山さんが人聞きの悪い事をおっしゃるからじゃないですか〜」

「あー、はいはい。ちゃんとやってくれたわけね。お前なりに」

「私なりに、なので金魚さんたちには悪い事をしたと思ってますけど」

「お、わかってんじゃん」

「・・・私はまだ、真山さんみたいに自分以外の生き物に責任が持てないんですよね」

「そうねー。もうちょっとオトナにならないとねー」

「真山さんはオトナなんですか?」

「当たり前でしょ?」

「えっ?」

「何だよ、文句ある?お嬢さん」

「いえ・・・」

「よし」

真山さんは満足そうに頷くと、短くなってきた煙草を咥えて、深く吸い込んだ。

 

「まあ、結局は俺が面倒見てやらなきゃ駄目ってこと?面倒臭えー」

真山さんが冗談交じりに言った。

冷静に考えれば、それが冗談だとすぐ分かるのに、その時の私にはそんな余裕はなかったのだろう。

あの金魚を真山さんがどれだけ大事にしていたのかを私は知っていたのに。

「そうですよ!?」

少々ヒステリックな声で私は言った。

真山さんが少し驚いた顔をしていたような気がする。

 

「真山さんがいなきゃ、駄目なんです・・・あの金魚さんたちは・・・」

「・・・うん」

「ですから・・・ちゃんと真山さんが面倒見てあげてください」

「わかってるよ」

「分かってないです」

「どうしたの?お前・・・」

「分かってるんでしたら、もう私にあんなこと頼まないで下さい」

「・・・そんなに迷惑だった?」

「はい」

「素直に言うねぇ」

「・・・真山さん、あの時私になんて言って頼んだか、覚えてますか?」

「生憎、お前みたいに記憶力よくないですから」

感情的になっている私を落ち着かせようとしているのか、真山さんはわざとふざけているように見えた。

私は、小さく息を吸って、記憶の糸を辿り寄せた。

 

「『俺が死んだら、この金魚に餌をやってくれないか』」

「・・・・・」

「そう言ったんですよ?真山さん」

「そうだっけ?」

「はい」

真山さんが短くなりすぎた煙草を下に落とし、靴の先でじりじりと踏んだ。

 

「もう、あんなこと頼まないで下さい」

私はゆっくりと、さっきの台詞を繰り返した。

「真山さんがちゃんと帰ってくるなら、金魚さんの面倒はいくらでもみますから」

「ちゃんとみてなかったじゃん」

真山さんがまた茶化す。

 

「お願いです。あの金魚たちを置いて、先に死なないで下さい」

 

真山さんが小さくため息をついた。

「真山さんがいないと、あの金魚たち生きていけないんですよ?」

 

私は、湧き上がって来る感情を何とか言葉にしたくて必死だった。

その、ほんのひとかけらでも真山さんに届いてくれる事を願っていた。

 

 

「何泣いてんの?」

真山さんの声にはっとなる。

「え?」

いつの間にか、私は泣いていたらしい。

頬に涙が伝う感触を、かすかに感じだ。

すると、真山さんがスーツの腕のところでごしごしと拭ってくれた。

少し乱暴だが、痛くはない。

「何?お前、泣くほどウチの金魚好きなわけ?」

真山さんが少し笑いながら言う。

「・・・そうなんでしょうか?」

「俺が知るかよ。自分のことでしょ?」

「あー・・・うーん・・・よくわかんないですけど・・・そうなんですかね?やっぱり」

「俺に聞くなって」

真山さんがまたぺちんと私の頭を叩いた。

 

「なんかさ、金魚よりお前の面倒見るほうが大変だよ」

「・・・私自分でご飯くらい食べられます」

「嘘つけ。平気で2・3日食わないくせに」

「私が金魚さんたち以下ってことですか?」

「まあ、そうなるね」

「ええ〜?」

 

「俺が死んだら、金魚よりもお前の方が生きていけなさそうじゃない?」

 

「・・・そんなこと・・・」

「あるでしょ?」

「ないです!」

「無理すんなよ」

「してません!!」

私が、ムキになって言い返すと、真山さんは満足そうに笑って、また出口の方に歩き出した。

「あー!置いていかないで下さいよ〜!!」

私が慌てて追いかけると、真山さんは一瞬止まり、私の方を振り返った。

 

「まあ、あれだね」

「はい?」

「手のかかる金魚も、頼りない係長もいることだし?」

「ですから、私は・・・」

 

「当分俺、死ねないね」

 

それだけ言うと、また真山さんは私に背中を向けた。

 

 

駅と事件現場を繋ぐ道。

行きは、早く現場に着きたい私が前を歩く。

帰りは、早く家路に着きたい真山さんが前を歩く。

これは習慣というより習性みたいなものなので、滅多に変わることはない。

 

真山さんの背中を見ながら歩く。

それがどんなに幸せな事か、この日初めて気がついた気がした。

 

 

駅で真山さんと別れて、電車に乗って家に帰る。

ポケットの中に、まだあの鍵があったことに気づいた。

少しその鍵を見つめて、また鞄の内ポケットの中に戻す。

 

自分勝手かもしれないけれど、それでいいのだ。

真山さんがそう言ってくれたと、私は確かに感じたのだから。