携帯電話
今でも忘れられないのは、彼女の温度でも肌の感触でもなく、たった一声。
深夜、斑目の元にかかってきた電話は、泥酔した様子の彩からだった。
「もしもし〜?あー、斑目〜?なにしてんの〜?」 「・・・彩?何か用か?」 「もー。相変わらずノリ悪いな〜。アンタそんなんで人生楽しい?」 「・・・それなりに、だが」 「何真面目に答えてんねん!!ここは怒らなアカンやろ〜?」 「そうなのか?」 「もー、ええわ・・・なあなあ、これから飲みに行けへんー?」 「これからって・・・もう終電ないぞ?」 「タクで来たらええねん〜。な?ええやろ?おいでーや」 「明日も仕事だ。悪いが遠慮させてもらう」 「なんやとー!?アンタ、彩さんの言う事がきけへんっちゅーの?」 「もう酒の量は充分な様子だが・・・帰ったほうがいい」 「終電もうないって言ったのアンタやろ〜?どないして帰ればええの?」 「タクシーあるだろ?」 「いやや。東京のタクシー高いもん」 「お前、東京に来て何年になる?」 「さあ〜?過去は忘れる事にしてんねん」 「・・・嘘付け」 「ウソやないも〜ん!アタシはなあ、前だけ見て生きていくねん」 「本当にそうか?」 「・・・なんや、感じ悪いなあ」
電話の向こうの相手が、苛ついているのがわかった。 多分、二人とも。
「言いたい事あったら言ったら?そういうの一番好かんわ」 「別に」 「ちっ・・・ムカつくわ〜。もうええ。アンタなんかに電話したアタシがアホやったわ!」 「・・・彩」 「何?もう切りたいんやけど」 「すまん」 「遅いわ・・・」 「気をつけて帰れよ」 「アンタに言われんでもわかってるわ」 「・・・そうか」 「じゃあ、切るで」 「じゃあな」
そこで、電話は途切れた。
深夜三時。 昔の恋人に付き合うのには深すぎる時間だ。
斑目は、飲みかけの冷たくなってしまったコーヒーを一気に飲み干す。 着信履歴の残っている携帯電話の画面をじっと見た。 いつまでもメモリーを消せないでいるのは、自分だけではない。 彼女にとっての自分の存在は何なんだろうかと、自分の中だけでは答えの出ない問題を反芻する。
新しいコーヒーを淹れようと立ち上がると、着信音が静かな部屋に鳴り響く。
「・・・はい」 「斑目?」 「そうだ」 「あのさ・・・ごめんな?」 「まだ酔ってるのか?」 「アホぬかせ。ワイン2本くらいで酔うかいな」 「そうか・・・お前が謝るなんて珍しいから」 「アタシだってたまには謝るわ!」 「・・・そうだったな」
その時二人の脳裏に浮かんだのは、きっと同じ情景。
昔の恋を引きずる彼女と、それでも彼女を好きになった彼。 それでも一緒にいたいと願ったのに。 辛いと思ってしまったのは、彼女の方。 震えた声の「ごめんなさい」を、彼は忘れることが出来なかった。
誰も悪くはないと、誰かが言った。 けれど、誰かが悪かったらすごく楽なのに。 そう思わずにはいられない。
「ちゃんと帰れよ」 「アンタもちゃんと寝ーよ」 「・・・じゃあな」 「今度はしらふの時に誘ったるわ」 「楽しみにしている」 「エエ心がけやな」
恋人とも友達とも違う。 だけど、只のモトカノと言うには少し寂しい。 そんな関係の居心地は、思ったよりも悪くない。
「じゃあな」 「おやすみ」
プチッと切れる電話の音。 けれど、自分達の関係はボタン一押しで切れるような関係ではないと信じたい。 諦めの悪すぎる自分でも、彼女は許してくれる、そんな気がする。
キッチンに立って、新しいコーヒーをカップに注ぐ。 当分、メモリーの00番は変えれそうにないと、斑目は一人笑った。
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