欠片

 

 

 

一緒にいる時間がいつの間にか長くなって。

多分、思い出は少なくはない。

 

その一つ一つは特別なものじゃなく、ごくごく普通の日常。

いつもの二人の、特別じゃないワンシーン。

 

全部集めても、今までの膨大な日々にはならないけれど、

一つ一つが愛おしい、大切な欠片。

 

それがあるから、大丈夫。

 

 

 

 

真山が風呂から上がると、体育座りをする柴田が部屋の真ん中に陣取っていた。

膝の上に調書を乗せたまま、うずくまっている。

さっき真山が洗ってやった髪はまだ濡れたままだ。

横目でその状況を確認して、真山は何も言わずに冷蔵庫に向かう。

ぺたぺたと音がする床は、気温と共に段々と冷たさを感じるようになってきた。

「ぱたん」と静かな部屋に冷蔵庫の扉を閉める音が鳴り響く。

続けてプルトップを空ける音。炭酸の抜けるような音は、ビールを飲む時の前戯の様だ。

 

「し〜ばた〜」

ようやく真山が口を開く。

ビールを飲みながら、柴田に近づいて行く。

柴田は返事も反応もしない。

ビールを飲んだ余韻なのか、それともそんな柴田を見たからか、真山は小さくため息をついた。

 

「寝るのはいいけどさ、ちゃんとベットに行けって」

真山は屈んで、柴田に言った。

柴田はゆっくりと顔を上げた。

途端にするりと柴田の膝の上から分厚い調書が落ちる。

床にばさりと音を立てて落ちた調書を真山は拾い上げた。

「調書は明日にしなさい。ね?」

父親のように真山は諭す。

 

柴田はここ数日、この調書に夢中だった。

昨夜は弐係に泊まって徹夜で読んでいた様だったし、

その前の日から私物のように持ち歩いているから、多分一昨日からずっとその様子なのだろう。

昼間は嫌がる真山を引っ張りまわして捜査に出るため、

『調書を読むのは夜のうち』にと言うのが彼女の中の法則なのだ。

 

しかし、彼女は文字通り寝食を忘れて夢中で読むために、いつも無理をする。

真山は出来るだけフォローはするが、頑固者の柴田はなかなか素直に言うことを聞かないのだ。

 

今回も一心不乱に調書を読む柴田を見かねて、真山は自宅の風呂に入れた。

眠気がすぐそこまで襲ってきているらしく、柴田は風呂の中でうとうとしていた。

きっと放っておいても寝るだろうと真山は考えていたのだが、頑固者はまだ睡魔に抵抗をしている様だ。

 

 

柴田は薄く目を開け、首を僅かに横に振った。

「・・・だめ、なんです。・・・もう・・・ちょっとで・・・」

「明日でいーじゃん。寝ろよ、な?」

もう一度柴田は首を横に振り、真山が持つ調書に手を伸ばした。

「時効・・・まで、日が・・・ないんです」

必死な様子の柴田に真山は苦笑する。

「だいじょぶ、だいじょぶ。明日でも。お前頭良いんだからさ、すぐわかっちゃうでしょ?」

頭をぽんぽんと撫ででやった。

「・・・だめ・・・です」

もう首を振る余力さえない癖に、柴田はまだ抵抗を続ける。

 

 

真山にだって犯人逮捕への熱意がないわけではない。

けれど、どうして柴田がそこまで一生懸命になれるのか、理解し難いものがある。

 

そう言いながら、真山はここまで一生懸命になる柴田の姿が、きっと嫌いではないのだ。

自分が、そんな柴田のサポートをする事も。

 

 

 

柴田が眠りに入るまでは時間の問題だろう。

真山は自分の手にある調書に目をやり、本日二回目のため息をついた。

そして、傍に置いていたビールをごくりと飲んだ。

 

「わかったよ。読んでやるから、ちゃんと聞け、な?」

真山の言葉に、柴田が少しだけ目を開けた。

「・・・え?」

「もう目、開けてらんないんでしょ?」

照れ隠しか、ぶっきらぼうにそう言うと、真山はページをめくり始めた。

「どこ?」

「・・・あ、えっと・・・被害者の・・・恋人の、証言を・・・」

柴田が顔を上げる。真山の意外な行動に、少し眠気が醒めたようだ。

 

ぺらぺらとしばらくページをめくる音が続く。

「あった。・・・え〜、『被害者の恋人:松本由香里の証言…被害者は事件前日の夜・・・』」

真山が該当箇所を朗読し始めた。

まるで授業中、先生に当てられて教科書を読み上げるように。

感情を入れることなどなく、ただ淡々とすべるように真山の声が流れて行く。

滑らかで、やさしい真山の声。

柴田はその声にじっと耳を傾けた。

そして、ゆっくりと目を閉じる。

 

 

しばらく真山が読み上げていると、柴田の手が真山の腕をそっと掴んだ。

「柴田?」

真山が視線を調書から柴田の方に変えると、柴田は目を瞑ったまま、幸せそうな顔で僅かに笑った。

「だめです・・・真山さんの声・・・子守唄みたいです・・・」

「は?」

せっかく読んでやったのにと不満そうな真山が声をあげる。

「なんか・・・すごく・・・きもちいー・・・です」

その言葉を残し、柴田は睡魔に身を任せることにした。

 

 

「・・・なんだよ」

まだ少し不服そうな真山はそう呟くと、調書を床に置いた。

自分の膝を抱え、体育座りのまま眠り込んだ柴田を抱えて立ち上がる。

「重てー・・・だからベッドに行けって言ったんだよ・・・」

口では不満を漏らしつつも、ふんわりとやさしく、柴田をベッドの上に降ろす。

薄い掛け布団をそっとかけてやった。

 

 

真山はベッドを背もたれにして、もう一度床の上に座る。

飲みかけのビールは、まだ冷たいままだった。

今更、柴田の寝顔を見ようとは思わなかった。

少し前なら、きっと覗き込んで安心を得ただろうけど。

耳に届くかすかな寝息。

それだけで、とてつもない安心感を得る事が出来るから。

 

 

 

正直に言うと、柴田がいなかったら生きていけないと思ったこともあった。

上手く表に出さない想いを弄んだこともある。

言い様のない幸福感と、果ての無い不安に押しつぶされそうになったことは、もう随分昔の事のような気がする。

 

今は、多分あの頃とは少し違う。

 

多分、柴田がいなくなっても生きて行くだろうし、

もしも二人離れる様な事があっても、ちゃんと今までどおりに生きていける自信がある。

 

 

例えば、この柴田の寝息、さっきの言葉、触れた時の温かさ。

今までの、何てことない日常の欠片を忘れなければ、きっと俺は大丈夫。

 

未来に復讐するのが過去ならば、

未来に希望を与えられるのも、きっと過去。

 

 

だから今は静かに、積み重ねて行く日々が、何よりも心地良い。

 

 

真山はふと思い出したように、くるりと後ろを向いて、やっぱり柴田の寝顔を覗き込んだ。

幸せそうな寝顔に、小さく笑う。

 

そして、またビールをごくりと飲んだ。

これ以上、旨い酒などあるものか。

真山は満足そうに、また、少し笑った。