July
私は、気がついてしまった。
多分気づかなかった方が幸せだった。
けれど、私は気がついてしまったのだ。
悲しいけど、辛いけど。 あの人に言わなければならない。
私の口から、はっきりと。
柴田がどんどんどんと、真山の部屋のドアを何度も叩いている。 朝の10時、多分真山が起きているか寝ているかギリギリのところだろう。
「…何だよ?捜査なら行かないよ?」 柴田がしばらく叩いていると、やっとドアが開く。 眠そうな、迷惑そうな表情の真山の顔が見えた瞬間、柴田は目に涙を浮かべた。 「まやまさぁーん…」 消え入りそうな声に、真山はため息をついた。 「なんだよ。用があるなら早く言ってくんない?」 寝起きなのだろう、ぼりぼりと後ろ頭をだるそうに掻いている。 「私・・・わかっちゃったんですよ…」 柴田は手を伸ばして、ドアの隙間から見えている真山のスエットをぎゅっと掴んだ。 「だから、何が」 二人が追っていた事件の犯人は、前日逮捕したので、真山にとって心当たりがまったくなかった。
今にも泣きそうな表情の柴田が顔を上げた。 真山と目が合って、柴田はぐしゃりと表情を一段と歪める。 「…柴田」 仕方なさそうに、真山が柴田の顔に手を伸ばしたその時、漸く柴田が口を開いた。
「真山さん、私…真山さんとお別れしなくてはならないみたいです…」
伸ばしかけていた真山の手が止まる。 柴田の瞳から溜まっていた涙が、やっと一筋流れていった。
真山の部屋、いつもの定位置に柴田はちょこんと座っていた。 鞄から漸く取り出したポケットティッシュで鼻をひとかみした。 その隣に真山がどかりと座る。 柴田の目の前に、水のペットボトルを差し出してくれる。 「…ありがとうございます」 涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、柴田が顔を上げると、呆れた様な真山の顔があった。
「…で、何をわかっちゃったわけ?」 自分用の水を飲みながら、真山がため息混じりに尋ねる。 ぐすっと鼻をすする音が聞こえて、また柴田の目に涙が滲む。 「真山さぁん…どうしましょう…」 「だから、俺に聞かれてもワケわかんないんですけど。ちゃんと説明しろって」 泣きそうな柴田をなだめるのでもなく、諭すのでもなく、すこし苛ついた様に真山は言い放った。 柴田はこくりと頷くと、鞄の中から一冊の本を取り出した。 「これに…書いてあるんです」 真剣そのものの柴田の口調ではあるが、真山は少し拍子抜けした。 柴田が取り出したのは、明らかに一昔前の少女漫画だったのだ。 「…は?」 思わず、情けないような声が真山の口をついて出てしまう。
「昨夜からこの本を読んでましたら…悲しい事実がわかりました。 私が真山さんに抱いているのは恋愛感情ではないようなんです」
柴田は大真面目だ。 下唇を噛み締めて、悲しそうに真山を見上げている。 真山はどう返していいのかわからず、とりあえず聞いてみた。 「・・・なんで?」
柴田は持っていた漫画をぺらぺらと捲る。 「この漫画によりますと、恋人への恋愛感情というものはですね、 いつまでも色あせずドキドキとするものなんだそうです」 「…へぇ」 こんな説明を真剣に聞くのもなんだか馬鹿らしく思えて、真山は気の入っていない返事をする。 それも気に留めず、柴田の熱弁は続くようだ。 「少し手が触れただけでドキドキしたり、一日でも会えなかったら涙を流したり・・・ 私、今もこんな気持ちかと問われたら…そうじゃないと思うんです」 辛そうに柴田が下を向くと、少女漫画の表紙の美男子にぽたりと涙が落ちた。
・・・・・・さて、どうしたものか 真山がこれほど対処に困ったのは久しぶりのかもしれない。
「真山さん…」 柴田が顔を上げた。 涙を流している艶めかしいその表情は、話している内容と釣り合っていない。 「私…もう真山さんが好きじゃないんでしょうか…?」
真山は黙って、その表情を見つめた。 そして、件の本を手に取り、ぱらぱらと捲る。 大げさに瞳の大きい美少女が、暴走族の美男子と恋に落ち、結婚するまでの話のようだ。 出版されたのは、やはり昭和の年号だった。
「…木戸か?」 「はい?」 真山が口を開くと、柴田の肩がびくりと触れた。緊張しているのかもしれない。 「この漫画、木戸に押し付けられたんじゃないの?」 「あ、はい…どうしてわかったんですか?」 「やっぱりな」 柴田の質問には答えずに、真山はまた小さくため息をついた。
真山は焦らすようにゆっくりと水を飲んだ。 「…で?」 「え?」 柴田は不安そうな表情だ。 「お前は何で泣いてんの?」 「私は・・・」 言いかけて柴田は口をつぐんだ。 「柴田」 真山が低い声で刺すように促す。 顔を上げて、柴田は何かを決意したような表情になった。 「…私は、好きじゃない人とお付き合いを続けることは出来ないと思います」 犯人と対峙するときのあの表情だった。
「お前さ…」 今度は真山が言いかけて止める。 「真山さん?」 「好きじゃないヤツと別れるんだから、泣かなくていいんじゃないの?」 柴田の胸がずきりと痛む。 涙がじわりと滲んできて、思わず目を拭う。
不意に、真山の手が伸びてきた。 頭を乱暴に撫でられる。 その手に、柴田の胸はますます締め付けられるように痛んだ。
「で、自分で考えてみた?」 柴田は苦しくて顔を上げられなかった。 「こんな漫画とか本とかじゃなくてさ、自分で考えてみたの?」 真山の口調は怒っているのでも責めているのでもなく、ただいつもどおりだった。 「それは…」 やっとまた、真山のほうを見れた。 予想外に真山はなんだかにやにやしている。
「わからないんです…でも…」 「・・・でも?」
真山がどうしてこんなに余裕の表情なのか、柴田にはぜんぜんわからない。
「でも、すごく嫌です。真山さんと会えないのも、一緒にいれないのも…」 「ふーん。あれじゃないの?情が移ったとか…そっち系」 「情…ですか?」 「そ。長年一緒にいる夫婦が別れられないって言う、あれ」
真山は動いていないのに、二人の距離がいつの間にか近づいている。 知らずに柴田が少しずつ近寄っていっているのだ。
「わからないですけど、あの…」 「ん?」 「今、すっごく真山さんに触りたいです」 実際、柴田の手が真山の方に伸びていた。 真山が口の端を上げて、柴田の身体をすっぽりと抱きしめた。
「こういうこと?」 身体で直接声を聞く。 柴田の中のさっきまでの不安と悲しみが消えていく。 「…ああ、なんか気持ちいいです」 鼻腔をくすぐる真山の匂い、衣服越しに感じる体温。全てが柴田を溶けさせてくれるようだ。 「でも、俺のこと好きじゃないんでしょ?」 真山が言うと、柴田がぎゅうっと腕を回してきた。 「…真山さんは…どうなんですか?」 「は?」 「私のこと、どうなんですか?」 「さぁねぇ…」 「あー!ずるーい!!」
さっきまで泣いたり不安がったりしていた柴田が、真山の腕の中ではしゃいでいる。 半分呆れながら、真山はちょっとだけ笑った。
「…真山さん、私やっとわかっちゃいました」 「何が?」 「私きっと、真山さんのことがまだまだ好きなんだと思います」 「さっきと違うじゃん」 「はい。さっきは間違えてすみませんでした」 「何で急に?」 「自分でも良くわかんないんですけど…」 柴田がゆっくりと真山から身体を離す。 赤い瞳で、真山の顔を見上げて笑った。
「真山さんに抱きしめてもらったら、わかっちゃいました」
真山は答えずに、へらりと笑う柴田のおでこをぺちんと叩いた。
「…そもそも、俺はお前と付き合った覚えはないけどね」 「えー!?じゃあ、今日からお付き合いしましょう」 「嫌です」 「どうしてですかー?私のこと『彼女』って呼んでいいですよ?」 「嫌だよ!死んでも嫌」 「真山さん、恥ずかしいんですか?…痛っ!」 「大体お前さ、好きとか嫌いとか付き合うとか別れるとか恥ずかしくないわけ? …中学生じゃないんだからさぁ」 「やっぱり恥ずかしいんじゃないですか…きゃー!やめてください〜」 「帰れ!出てけ!で、一生来るな!」 「あー!真山さぁん〜?」
私は、気がついていなかったんだ。
多分、とても幸せだったから。
けど、やっと気づくことが出来たのだ。
楽しくて、嬉しくて あの人から貰うものは全て
けれど今、はっきりとわかった。
自分の幸せを。 あの人への想いを。
きっと、ずっと 色褪せない、宝物を |