| January
けほけほと、先程から小さな咳が弐係に響いていた。
とても小さな咳だった。
近藤は、偶然その咳を聞き取った。 パソコンに向かいながらも、その咳が気になり、辺りを見回した。 その咳は、弐係の中央に鎮座する応接ソファから聞こえていた。
その咳は柴田のものだった。
最近わりと寒い日が続いていたし、その中で柴田は真山を連れて毎日捜査に出掛けていた。 風邪をひくのも無理ないだろう。 けれど今朝、柴田が珍しく定時に来た頃にはそんな兆候なかったはずだ。
近藤は、何とはなしにチラリと隣席の真山を視界の端で盗み見た。 真山はさっきから興味なさそうに新聞の文化欄を読んでいた。 近藤の視線にも、柴田の小さな咳にも気付いていない様子だった。
退屈そうな欠伸が、真山の口から漏れた。 「・・・何?」 そこでやっと視線が合った近藤に真山が尋ねる。 「いえ・・・」 近藤はなんとなく野暮な気がして、また視線をパソコンに戻した。 真山も大して気にしている様子もなく、また新聞に視線を移す。 いつもどおりの静寂が、また弐係を包んだ。
「・・・けほっ、けほっ・・・」
今度ははっきりと近藤に聞こえる咳だった。 もちろん、隣の真山にも。
真山の眉がぴくりと動いた。 視界の隅でそれを目にしたが、近藤はなんとなくそちらを向けない。 それから、真山は長い首を伸ばして、視界を新聞からソファの方向に変えた。 きっと、柴田の後頭部が見えたはずだ。 真山は小さくため息をついた。
けれど、真山の視線はすぐに、また新聞に戻ってしまった。 近藤はなんだか意外な気がした。 いつもならここで小言が始まるのが常なのだ。
真山はもう小言を言い飽きたのか。 それとも柴田に小言は効かないと漸く悟ったのか。
近藤はなんとなく違和感を覚え、思わず真山の方に思いっきり顔を向けてしまった。 「・・・何?」 真山は視線を新聞に落としたまま、近藤に問う。 「いえ…」 本日二度目のやりとりが行われ、近藤はまた野暮だった自分を少し恥じた。
真山が柴田を心配していないはずなどないのに。
真山が新聞をめくる音が弐係に響き、近藤のパソコンのキーを打つ音も思い出したように再開された。
しばらくして、柴田が急にソファから立ち上がった。 もうその頃には、近藤は柴田の咳も、それに真山が僅かに反応した事もすっかり忘れていた。 柴田はずっとソファで読んでいた調書を大事そうに抱え、 真山の席までパタパタと小走りで駆け寄ってきた。
「真山さん」 少し興奮したような柴田の声。 近藤は手元を動かしながら、なんとなく耳を傾けた。 真山は新聞をまだつまらなそうに読んでいる。 「ん?」 耳だけ貸してやるよと言いたげに、面倒臭そうに真山は返事した。 「真山さん、わかりました。犯人のアリバイ、崩しちゃったんですけど」 ぎゅっと柴田が胸元の調書を握った。 「へぇ〜」 柴田の熱っぽい反応とは対照的な、真山の棒読みな返事。 「ちょっと、確認して来たいんですけど、いいですか?」 柴田の声はうきうきとしていた。きっとずっと考えていたのだろう。 「いってらっしゃーい」 しかし、柴田の熱意を袖にするような真山の答え。 聞いている近藤が、少し気の毒に思えてくるくらいだった。
「真山さぁーん」 少し甘えたような声が聞こえて、近藤は噴出しそうなのをこらえた。 「一緒に行って下さいよ〜」 「嫌」 真山は視線を新聞から離さずにきっぱりと言い切った。
いつもの事なのだ。 いつもこの二人はこのやり取りを延々繰り返し、そして渋々真山が折れるのだ。 そう、真山は結局柴田に甘い。 彩は口癖の様に二人が出て行った後の弐係で呟くのだ。
今日もその流れだと近藤は信じて疑いもしなかった。
「もう、真山さんお仕事なんですから〜」 どこかに台本があるのではないかと思うくらいに柴田はあの手この手で真山を連れ出そうとする。 けれど、真山は当然それよりも一枚上手で、あの手この手で断りの文句を並べていくのだ。 いつものやり取りが繰り広げられると思われた瞬間、真山がばさりと新聞を畳んだ。 そして、柴田の方に漸く顔を向けた。
「・・・お前さぁ」 その言葉が、いつもと違うように感じた。 「はい」 柴田がきょとん返事を返す。 その頃には、近藤の指は止まっていて、遠慮がちに二人のやり取りを目で追っていた。 「なんかちょっと感じないの?」 ゆっくりと真山が問いかける。 「え?・・・何かあるんですか?」 きょとんとしている柴田はまだしっかりと調書を抱いている。 「何かって・・・」 呆れたように真山がため息をつく。
キィと安物の椅子を回して、真山は体ごと柴田と向き合った。
「昨日さ、何時間捜査してたかわかってる?」 諭すように、真山はゆっくりと言葉を発する。 「えーと、朝の8時から夜の12時過ぎでしたから・・・ざっと16時間ですかね?」 近藤は思わず小さく声をあげた。 捜査熱心にも程がある。 「ですかねじゃないよ、馬鹿」 真山がぱしんと柴田の頭を叩いた。 ・・・そりゃ叩かれるわ。
「昨夜、言ったでしょ。今日ぐらいは休ませろって、ね」 不機嫌そうに真山が言った。近藤も思わず頷いてしまう。 「だって、やっと崩れたんですよ、アリバイ」 柴田がもどかしそうに言った。 「あのさ、その事件時効まであと3年でしょ、3年。 今まで放っといたんだから今更1日2日遅れても大丈夫だって」 警察という立場からは微妙な発言だが、なんとなくわからなくもない理屈だった。
「でも・・・」 当たり前だが、柴田からしたら納得のいく理屈ではなかったらしい。 不満そうにじっと真山を見つめている。 その視線から逃げようともせず、真山はじっと柴田を見つめ返す。
「今日は駄目。奢りも査定も効かない。何言われても捜査行かないから、な」
こんなにきっぱりと捜査を断る真山は実は近藤も見るのが初めてだった。
それでも柴田は何かを言いかけたが、真山の視線を感じて、黙り込んでしまった。
いつもの弐係の沈黙よりも重い重い沈黙が、三人にのしかかる。
こんな時に空気を読まないプロフェッショナルの金太郎が、 めずらしく彩を引っ張り出して捜査に出ていることが近藤には切なく感じた。
けれど、金太郎よりも空気を読まない存在を、近藤は忘れていた。
空気も仕事も関係なく時間通りに動く彼を。
「5時15分デス。今日モ終了、今日モ終了〜」 近藤のパソコンの影の主、穴掘りポリス君が呑気な大声を上げる。 その声に、近藤はほっとしたような、焦るような不思議な気持ちがした。
「ほら、定時だって。丁度いいじゃん。帰ろーぜ、な」 ポリス君の声に真山はよっと席を立った。 柴田はじっと調書を抱きしめていた。
「しーばーたー、帰るよ?」 動かない柴田を尻目に、真山はさっさと自分の上着を手にしている。
「・・・わかりました」 じっとしたまま、柴田が呟いた。 近藤も事態が収束したと思い、鞄を手にした。
しかし、柴田は静かに続ける。 「真山さんは帰ってゆっくりお休みください。私は犯人に会いに行きます」 梃子でも動かない、そう言いたげに柴田は意思の強い目を真山に向けていた。 真山はその姿を鋭い視線で捉え、誰にもわからないくらいのため息をついた。
「大丈夫です。崩れたアリバイを確かめるだけなので、私一人でも行けます」 柴田はそう宣言するように言うと、ぷいと歩き出した。 そしてやや乱暴にソファに座ると、もう一度調書を広げた。
「おい、柴田」 真山の少し強い口調にも柴田は反応しない。 意固地になったように、じっと調書を見ている。
近藤はどうしていいかわからず、鞄を手にしたまま、立ちすくんでいた。 カポエイラのレッスンの時間が迫っていたのだが。
真山は当然そんな近藤なんてお構いなしだった。 柴田のデスクの上の鞄とコート、マフラーをしっかりと掴むと、コツコツと靴音をさせて、ソファに近づいた。
そしてスナップを効かし、柴田の頭をぺちんと叩く。
「何意地になってんの?」 「・・・なってません」 尖らせた唇で説得力のない言葉を柴田は発する。 「お前、その調書読んでて、昨日寝てないでしょ?」 やや優しめの真山の言い方に、何故か近藤の顔がほころんだ。 「一日くらい大丈夫です」 拗ねている柴田は、いつもの真山よりもそっけない。 「・・・あっそ」 一瞬で真山にもそっけなさが戻る。
真山はつまらなそうに宙を見ながら、手持ち無沙汰にぐちゃぐちゃと柴田の頭をかき回した。 「・・・やめてください」 刺々しいままの柴田が真山に言った。 「なんで?」 飄々と真山は返す。 「髪の毛が・・・ぐちゃぐちゃになります」 「いつもじゃん」 柴田の言葉を聞いても真山はやめない。 「真山さん!」 語尾が荒くなってきた。 「ナンデスカー?」 逆なでするような真山の返事。
はらはらと近藤が二人のやり取りを見守っていると、ついに柴田がキッと真山をにらみ返した。
「やめてください!!」 柴田が声を荒げるのを近藤は初めて聞いた気がした。
その声を聞いても、真山は顔色一つ変えることなく、にやにやと笑っていた。
「お前さ、馬鹿?」 「何でそんなこというんですか!?」 柴田はすっかりムキになっている。 「犯人、アレでしょ?被害者の親友だっていう・・・」 意外に真山が柴田の事件をちゃんと把握していることに近藤は少し驚いた。 「はい。昨夜の推理、やっぱりあってました」 柴田が鼻息荒く言い返す。 「アリバイもう一度聞くって、そいつに?」 「はい。今から一人でも行きます!」 くくくっと真山は笑う。それを見て、柴田はぷうっと頬を膨らませた。
「落ち着けって。そいつの現住所、もう一回見てみな」 「えっ?住所って・・・」 慌てて、柴田が調書をめくる。 「・・・あっ!・・・秋田県・・・」 柴田は声を上げ、そして少しうな垂れた。
「捜査官が出張するには?」 意地悪な真山の質問が追い討ちをかける。 「捜査一課長と人事課長の許可を取って、出張先の警察に連絡が必要、でした・・・」
もう、ここまできたら真山の勝ちは決定したようだ。 真山はにやにやと意地の悪い笑顔を浮かべたまま、ぐちゃぐちゃの柴田の髪を撫で付けた。 「真山さん、知ってたならそんな意地悪いわなくてもいいじゃないですか・・・」 まだむくれたままの柴田が真山を見上げるように軽く睨む。 「基本でしょ、キホン」 ぐちゃぐちゃだった柴田の髪の毛は、いつもくらいには綺麗になっていた。 「定時過ぎちゃってるからね、もう人事課も捜査一課も受け付けてくれないよ」 今度はソファに置いていた柴田のマフラーを手にとって、真山はぐるぐると巻きつけ始めた。 柴田はもう抵抗もせず、だまってぐるぐる巻きにされている。
「あ、明日の朝一番で、私が書類を揃えて提出しておきます」 やっとここまで二人のやり取りを見守っていた意義感じ、思い切って近藤は二人に声を掛けた。 少しだけ声が裏返ってしまった。
その声に真山が軽く笑いながら近藤を見たが、すぐに柴田の方に向きなおした。 「近藤さん、お願いします・・・」 ぐるぐる巻きのマフラーのせいか、拗ねているせいか柴田の声はくぐもっていた。
「だから今日は帰るよー」 明るく真山が声をかける。 しぶしぶ、といった感じでのろのろと柴田がソファから立ち上がった。 もそもそとコートを羽織り、鞄に調書を大切そうに入れた。 その様子を見守っていた真山が満足そうに小さく何度か頷いた。
とぼとぼと歩く柴田の後ろをコツコツと靴音をさせた真山が歩いた。 なんとなく拗ねる子供とそれを丸め込んだ父親のように近藤には見えて、微笑ましかった。
「近藤さん、ではお先に」 ぺこりとドアのところで柴田がお辞儀をした。 「はい、おつかれさまでした」 反射的に近藤もぺこりとお辞儀を返す。 「おつかれ〜」と真山の声も聞こえた。
「真山さん、マフラー苦しいんですけど・・・」 もこもこした柴田が真山をぎごちなく見上げた。 「いいじゃん。あったかいでしょ、それ」 「あったかいですけど・・・おかしくないですか?」 柴田の問いに、真山がふっと笑った。 「おかしいのはいつもでしょ?いいから、そのままで帰るよ〜」 ぽんぽんと優しく真山の手が柴田の頭を撫でる。 「早く帰って、あったかくして寝ろ、な?」 柴田は不思議そうに首をかしげ、そのままさっさと先に行った真山にとたとたとついて行った。
二人がいなくなってからもしばらくあっけにとられた近藤だが、 柴田の小さな咳を思い出して、やっと真山の行動に合点が行く気がした。
ただ、少し真山は過保護ではないかと要らぬ心配をしてしまい、 うっかりカポエイラのレッスンをサボってしまった事は、妻や子供たちには言えないでいる。 |