いのりぼし
それは、病によって死を宣告された男性が、愛する人の命を奪った悲しい事件であった。 「耐えられなかったんだ。 俺が死んだ後、他の男に抱かれるあいつを想像するたびに、狂いそうになった。 俺は確実に死に近づいていく。けれどもあいつにはまだたくさんの時間がある。 俺の死んだ後のあいつの時間まで欲しかったんだ!」 犯人はそう言った。
その直後、「いつもの一係の皆さん」の手によって犯人は連行されていった。 柴田はその場所から凍りついたように動けなくなっていた。 「ほら、行くよ」 真山がそう言って、柴田の後頭部を叩く。 「あ、はい。」 我に返った柴田はそう返事をすると、のろのろと歩き出した。
外に出ると、空はすっかり日が暮れていた。 真山は腕時計を見ると、小さく舌打ちをした。 「あ、やっぱもう定時過ぎてんじゃん」 そういって真山は駅へと歩き出した。 柴田は黙ってその後を付いていく。柴田は外に出て以来、口を利こうとはしなかった。 真山も特に何も言わず、二人は黙々と歩いた。
不意に、柴田の歩みが止まる。 真山はすぐにそれに気づき、柴田に倣って止まる。 柴田は黙って真山のコートのすそを掴んだ。 「何だよ、柴田」 柴田は下を向いたままポツリと呟いた。
「…真山さん、愛する人を残して死ぬ方と残される方、どちらが辛いと思いますか?」
「何だよ、お前。さっきの犯人が言った事まだ気にしてんの?」 真山がガードレールにもたれた。柴田はまだコートのすそを掴だままだ。 「はい。どっちだと思いますか?真山さん」 柴田にああは言ったものの、犯人の言葉は真山の心も深くえぐっていた。
真山の前に二つの情景がよみがえる。 一つは、あの河原で柴田を失ったと思った時。 もう一つは、ビルの屋上で背中にナイフが刺さって、死を感じた時。 愛する人を失い、また愛する人をこの世に残して死に飲み込まれそうになった、あの場面。 どちらが辛かったのか?そんなことは覚えていない。 しかし、どちらの時も感じたのは彼女への熱い、想い。 そして深い後悔の念。
真山は無意識に煙草を吸っていた。 いつの間にか短くなっていた煙草を落とし、足で踏む。 柴田はそんな真山の動きを一つも見逃すまいと見つめ続けていた。 「…どっちも辛いんじゃねぇか?」 それは、逃げでも誤魔化しでもない真山の心からの答えだった。 「そうですか…でも、私はもう残されるのはこりごりです。父の時に十分、苦しみましたから」 そういって柴田は少し笑う。真山は柴田が恋愛に関して臆病なのは、このせいもあるのではないかと真山は思った。
「ですから、真山さんも私を残して死なないで下さいね」
柴田が静かに言った。彼女はどうやら言っている事の重大さに気づいていないらしい。 「何?お前、俺が好きなの?」 「いえ、違います。以前真山さんがなくなったと思った時、父を亡くしたときと同じような、いえ、それ以上の気持ちがしたからです。 もう、あんな想いはしたくないんです」
相変わらず、大切な事に彼女は気づいていない。これでは「愛の告白」と同じではないか。 しかし、真山は少し苦笑いを浮かべてその事実に気づかないフリをした。
「じゃあさ、俺はまた取り残されてもいいワケ?」 真山がガードレールに深く腰をかけているせいで2人は目線がおんなじであった。 「あ、そういえばそうですね…では、こうしましょう。 死ぬ時は2人同時に、ということでいかがでしょうか?」 「え?何?ってコトはボクがキミと心中すんの? お前となんかぜってー嫌だね。末代までの恥。いい笑い者じゃん、俺」 「えっと…じゃあ、どうしましょう?」 柴田はやや本気で困っているようだ。そんな姿を見て、真山の顔に笑みがこぼれる。 「お前ね、発想暗いんだよ。 一緒に死ぬんじゃなくて、ずっと一緒に生きてけばいいじゃん、ね?」 「え…?でも、人間いつかは死にますから…」 「その時はその時だよ。いいか?意識の問題。 死ぬことばっか考えんなよ。生きていくことだけ考えればいいじゃん、な?」 「…はぁ」 柴田はまだ難しい顔をしている。
真山は自分の言っていることに自分で驚いていた。 妹の命を奪われて以来、「生きていることだけ考える」なんて前向きな考え、忘れていた気がする。 そんな考え方をするようになったのは、やっぱ悔しいけどコイツのお陰なんだろうな。
「あの…」 「ん?」 「先ほどのお言葉は、プロポーズと受取ってよろしいんでしょうか?」 バシッ 「は?何言ってんの?お前。調子にのんじゃねぇよ」 「はぁ。でも先ほどの台詞はプロポーズにしか聞こえないと思いますけど」 「あのね、どうして俺がお前みたいなのと結婚しなくちゃいけないの?もっと美人で色っぽいおねーちゃんと結婚するよ」 「では、先ほどのはどういう風にとればいいのでしょうか?」 …俺もわかんねぇんだよ。真山は苦笑いをした。 「きっとさ、宿命なんだろうよ」 「宿命、ですか?」 「そう。俺はずっとお前のお守りをする宿命にあるんだよ。呪われてるよ、全く」 柴田が「呪い」という言葉に反応して、にやりと笑う。 「真山さん、呪われてるんですか?」 バシッ。二回目の鉄拳。 「笑ってんじゃないよ」 真山は新しい煙草を取り出して、火をつけた。 細い煙がゆっくりと立ち昇る。
「愛とか、恋とか、運命とか。そんな甘いもんじゃないけど。 宿命とか呪いとか必然とかで、他の誰よりも固く結ばれてるんだよ、俺たちは」
「お前さ、いつか言ってただろ?」 柴田が目だけで聞き返す。 「掴まっててもいいですか?って」 あれは、あの島での事。蒼い、蒼い海で言った一言。 柴田が軽くうなずく。 「俺がお前に掴まって、お前が俺に掴まって、やっと生きているんだと思うよ、俺たち。」
「なんか、よくわかりません。」 「俺だってわかんねぇけどさ、そういう事なんだよ」 真山が煙草を捨てて、立ち上がり、柴田の頭をくしゃっと撫でた。 その表情は酷く穏やかだった。
再び、2人は駅までの道のりを歩き出す。 柴田の手は真山のコートのすそをしっかりと掴んだまま、離すことはなかった。 |