ひこうきぐも

 

 

 

たまに、どうしようもなく自分が情けなくなる時がある。

気分だけで言えば、自分で自分を説教したいくらいだ。

けれども、心の中だけとは言え、そんな馬鹿げた行為をするのもどうかと思うので、説教などしたことがないが。

 

これは、俺が弱いのか。

俺が馬鹿なだけなのか。

・・・この女のせいなのか。

 

それすらも、曖昧で嫌になってくる。

 

 

俺はずっと、弄んでいる。

きっと、他でもない自分を。

 

 

 

「どうして」と自問自答など意味のないことを何度か繰り返している。

多分、本気で言えばどうにだってなるはずだ。

けれども、毎回毎回この女に負けて俺は同行するハメになる。

来たくもない古い事件の現場に。

それとも、俺はこの女と一緒に行動するのが嫌なんだろうか。

 

また意味のない自問をして、答えは出さずに肺の空気と一緒に紫煙を吐いた。

 

蝉は神経に障るぐらいに鳴き喚いてて、嫌というくらい暑い。

 

なんとなく空を仰いだ。

 

視線の先に小汚いあの女がいないと思うと、なんとなく清々しくて深呼吸を一つ、した。

 

 

けれども、それは一瞬の清涼感に過ぎなくて。

遠くから、のんびりした女の声が聞こえる。

 

「まやまさーん」

 

上を向いたまま、眉をしかめて、俺は小さく舌打ちをした。

 

 

「まやまさーん」

のんびりとした声が近づいてくる。

顔をしかめたまま、女のほうに顔を向けた。

 

 

「真山さん、何をご覧になってるんですか?」

なんだか嬉しそうに女は聞いてくる。

「…別に」

手にしていた煙草を唇に寄せる。

「あ!わかりました。あれですね!」

俺の不機嫌な態度をお構いなしに、女は能天気に笑う。

「何だよ」

女は嬉しそうな笑顔のまま、人差し指を真っ直ぐに上に伸ばした。

 

「あれですよね?ひこうきぐも!」

 

確かに、彼女の指先には白い一本の線があった。

 

細い細い、ひこうきぐも。

気持ちのいいくらいに、すぅっと、青い空に白い線を描く。

 

 

女は空に向かって、必死で手をぶんぶんと振り始めた。

「お〜い!!」

「飛行機から見えるわけないでしょ。馬鹿」

俺は呆れて、ぷかぷかと煙草をふかす。

「いいんです。気持ちが大切なんです」

「はあ?」

訳のわからない女の理屈に俺がまた顔をしかめると、女はにっこりとまた笑った。

 

 

 

「あ、そうだ。真山さん。ちょっとお願いしてもいいですか?」

「嫌だ」

「え?そんな即答しないで下さいよ〜。まだお願いもしてないのに…」

「俺はここに来た時点で、もうお前のお願いきいてやってんだよ?これ以上は嫌だね。絶対嫌」

「え〜?もう、そんなこと言わないで下さいよ〜」

この女が懇願する時は、大抵くねくねと妙な動きをする。

「気持ち悪ぃんだよ、馬鹿!馬鹿馬鹿!その動きやめてくれる?」

ちょっとムカついたので、頭をばしばしと叩きながら言った。

「え〜?かわいくないですか〜?」

「何が?何がかわいいの?これの。

ってかさ、ないよ?お前のこの動きでかわいいところなんか一ミリもないよ?」

「真山さんひどいです〜」

さらにくねくね度が増す変態女。

「ひどくないよ!ひどいのはね、お前の頭の匂いです。くっせー、ちゃんと風呂入ってんの?」

「入ってますよ〜?・・・昨日はちょっと忙しかったですけど・・・おととい・・・あれ?その前だったかな?」

「3日前?え?お前さ、わかってる?今って夏。ね?人として失格だから」

「そこまで言う事ないじゃないですか〜」

「事実だよ、事実。ね。お前それ自分の頭のにおい嗅いでから言ってみな?」

「そんなにくさ…あー、ちょっとだけ・・・ですね」

「お前さ、鼻までおかしいの?」

「鼻までって・・・他もおかしいみたいじゃないですかー」

「わかってんじゃん」

「ひっどーい!!」

 

 

 

 

何気ないやり取りは、最早日常の一部で。

下らないと思いながらも、俺はどこかでこの状況を楽しんでいるのではないかと思う。

そして、この心地よさが俺を駄目にしているんだ。どこまでも。

 

 

「真山さん、私の手を持っててくれますか?」

「何で?」

「だって、ここ・・・高いんです」

ここは4年前飛び降りがあったという現場。確か、13階だてのビルの屋上。

高所恐怖症の女なので、下を覗くことが難しいらしい。

そういった場合、命綱のように俺にマフラーだの腕だのを握らせて、安全を図っているらしい。

「いい加減慣れろよ。高いところくらい」

「無理ですよ〜。だって高いんですよ〜」

また不毛な会話をして、二人で屋上の端まで歩く。

途中で吸殻を捨てる。

「南東1メートルだから・・・えっと・・・」

「こっち」

「あ、ありがとうございます」

方向音痴に指を刺して方角を教える。

「このへんですね」

真剣なまなざしで女が呟いて、それから俺の方を振り返った。

「真山さん、お願いします」

俺はわざと面倒臭そうな顔を作って、女の腕を持った。

両手を俺に預けて、女は身を乗り出す。

 

 

この女はそうだった。最初から。

最初から俺に命綱をさせて、俺なんかに命を預けていた。

どうしてだろう。

どうして、俺なんかを簡単に信用するんだろう。

 

例えば今、俺が手を離したら

例えば、背中を強く押したら

この女は自分がどうなるか本当にわかっているんだろうか。

 

それだけ、信用しているのか。

こんな俺を。

 

 

「なあ」

「はい?」

「今さ、俺が手を離したら・・・とか思わないの?お前」

「何でですか?」

「そしたらお前、死んじゃうよ?」

「あー・・・でも、大丈夫です」

女は俺に背を向けたまま、はっきりとした口調で言った。

 

「真山さんは私を殺したりなんて、しません」

 

 

背筋に、寒いものが走った。

ぞくぞくと体中の血が逆流するような気持ちになる。

 

多分、普通のことなんだと思う。

誰も、同僚が突然自分を殺すかもなんて思って生きていたりはしない。

普通に考えれば、そうなのだけれど。

 

 

今の、この曖昧な俺にとっては、重い言葉だった。

やっぱり、どんな風な形であっても、この汚い女は俺にとって凄く大事で。

それはわかっているけど、どうしたらいいか俺にはわからないんだ。

俺はその気持ちを自分の中で弄ぶ事しか出来ない。

 

弱い俺は、何も出来ずに、ただ毎日。

こうして、嫌がる振りをしながら、傍にいることしか出来ないんだ。

 

 

 

「ありがとうございました」

急に声がして、俺ははっと我に帰る。

「やっぱり・・・もう一回関係者の証言取るしかないんですかね?」

独り言のように呟いて、女は俺の顔を見上げた。

「真山さん?」

俺の体が僅かにぴくりと反応する。

「何?」

軽く睨むように見下ろすと、女の顔が困ったような表情に変わった。

 

「あの・・・腕・・・」

さっき、女に頼まれて持った腕を、俺はまだ離さないでいた。

薄いブラウスの上から、しっかりと女の細い腕を掴む。

 

困ったような女と、睨んだような俺の視線がぶつかる。

ほんの数十秒、見詰め合う格好になる。

 

 

例えば今、俺が腕を引き寄せたら

例えば、肩を強く抱いたら

この女はどうするつもりなんだろうか。

 

 

 

 

「真山さん・・・?」

小さな声がした。

「どうしたんですか?」

伺うようなやさしめの口調。俺は何故かそれに少しいらついた。

「何?痛い?」

女は頭を左右に振る。

じゃあ黙れと俺は視線を強くする。

 

「あのさ」

「・・・はい」

女の緊張が声だけでわかる。

「俺も、自分でお前は殺さないと思うよ」

「はい」

小さく頷く女。

「でもまぁ、他に何するかわかんないしさ」

「え?・・・何か、ですか?」

「うん。まーイロイロ」

言ってる事が可笑しくて、ちょっとだけ笑ってしまった。

 

 

「だから、お前さ、そういう時は、ちゃんと逃げろ。な?」

 

 

俺の言葉に、女はぽかんとした表情を見せる。

自分でもこの上なく馬鹿な発言だと思うので、その反応は正しいと思うけれど。

 

俺は腕を掴んでいた手を離すと、最後に頭を軽く撫でた。

「わかった?」

子供を叱った後のように言うと、女は首をかしげながら呟く。

 

「逃げた方が、いいんですか?」

 

とんちんかんな女の言葉。

「意味わかってる?お前」

「はい・・・なんとなく」

わかっているならば、尚の事始末に悪い。

 

 

俺はまた小さく笑って、それからゆっくり女を抱きしめた。

 

 

「・・・真山さん?」

体の中からくぐもった女の声がする。

女の頭に顔を寄せると、嫌なにおいがして少し顔をしかめてしまった。

最後に少しだけ力を入れて抱きしめ、そして女の体からゆっくりと離れた。

ふーと女が呼吸をする音がする。

 

「ね?こういうことされる前に、ちゃんと逃げなさいって言ってるの」

 

 

 

それだけ言うと、俺は柴田の反応を見ずにくるりと背を向け、ドアの方に歩き出す。

「真山さん」

背中に声がしたので、振り返ると女が顔を赤くして立っていた。

「・・・お前さ」

その言葉に、女がまた緊張した。

 

「お願いだから、ちゃんと風呂、入って?」

 

 

今度は振り返らずに女に背を向ける。

視線を上げると、空にまた一筋の細い細い雲が見えた。

 

『いいんです。気持ちが大切なんです』

 

さっきの女の言葉が頭の中で繰り返される。

 

細い雲でも、曖昧なままの気持ちでも。

空が青ければ、きっとこうして一つの道を作るはず。

 

 

行き先は、俺じゃない。この女が決めればいい。

 

 

ぱたぱたと慌ててついてくる足音が聞こえる。

今はきっと、ただ傍にいたいだけなんだ。

 

情けない俺は、その答えだけで充分な気がした。