白昼夢

 

 

 

肌寒くはあるが、陽のあたたかい昼下がりの事だった。

 

多摩桜病院の中庭では、患者の何人かが散歩を楽しむ姿があった。

車椅子に乗った上品そうな婦人と、その車椅子を押す大きな体の男性もそんな中の一組だった。

その二人を、優希は少し離れたところから見つめていた。

しばらくの間、彼女は二人の姿をじっと見ていたが、ゆっくりと近づいていく。

 

「・・・岸川さん」

小さく声を掛けると、車椅子が止まった。

「主任さん!!」

体の大きい岸川という男性がにっこりと笑顔になって、大きな声を出した。

「こんにちは」

その夫人が上品そうに微笑む。

優希は、頭を下げて会釈をした。

 

 

大きな木の下に夫人の乗った車椅子が停められた。

優希は、その隣にある木製のベンチに腰を掛ける。

岸川氏は、少し離れたところで二人の姿を見守っていた。

 

「・・・ずっとお休みされているから、寂しかったのよ」

夫人が穏やかに言った。

「すみません、ご心配おかけして・・・」

優希の短い髪が揺れる。

「あなたが元気で、安心したわ」

にっこりと笑顔を向ける夫人に、優希は済まなさそうな顔をした。

「・・・今日は、岸川さんにお別れを言いに来たんです」

「そう・・・」

優希が病院を去ることは、この岸川夫人だけには話してあった。

だから、この夫人だけにはお別れを言っておきたかったのだ。

 

「この間、あなたが言っていた人と一緒に?」

夫人は笑顔のまま、優希に尋ねる。

優希は、かぶりを振る。

夫人の顔が曇った。

 

「その人は・・・亡くなったんです」

 

優希が噛み締めるように言うと、夫人の目が大きくなった。

「心配・・・なさらないで下さい」

静かな笑みを優希は浮かべる。

強がりではなかった。

「とても、安らかな顔をしていたんです」

優希の視線は、何かを思い出すように、少し遠くにあった。

「主任さん・・・あなた、本当に大丈夫?」

優希の手を優しく握って、夫人が心配そうに顔を見つめる。

小さく優希が頷く。

それでも、夫人の顔から心配そうな表情は消えない。

「無理なんて、しなくていいのよ?」

夫人の手は、すべすべとして温かく、優希の心まで温まって行くような気がした。

 

優希は軽く深呼吸をして、口を開いた。

「・・・彼は、過去に捕らわれていた人でした。

私なんかよりも、ずっとずっと傷ついて、その傷をどうしても隠せなかった

そのせいで、罪を・・・犯してしまったんです」

夫人が相槌を打つ。その表情は厳しかった。

「私は、それでもいいと思ったんです・・・彼と一緒ならば、それでもいいと・・・

でも、彼は一人で逝ってしまった。

あの人を助けてあげられなかった・・・その事に、すごく失望しました」

優希が一瞬、唇を噛み締めた。

「こんな事を言うと怒られるかもしれませんけど、後を追うことも考えました」

夫人を安心させる為か、優希は穏やかな笑顔を浮かべる。

 

「何日か、考えました。抜け殻みたいな頭で。

それで、こう思うことにしたんです。

彼が私を連れて行かなかったのは、あの人の最期の優しさだったんじゃないかって」

優希の手が、夫人の手を握り返す。

「あの人は、本当に過去に捕らわれていたと思うんです。

きっと、最期の最期まで。

そんな人生に、私を巻き込みたくなかった。

彼と一緒の人生を私が選んだら、私まで過去に捕らわれてしまうと・・・」

優希の瞳が少し潤む。

夫人の手を握り締める力がほんの少し強くなった。

「だから、自ら命を絶って、私を過去から救ってくれようとした」

その言葉に夫人はショックを受けたようだった。

優希は、涙をこぼさないように必死だった。

 

「『過去に捕らわれずに生きて欲しい』

そう彼が私に言ってくれたような気がしてならないんです」

 

 

「・・・本当に、私に都合のいい解釈です。証拠なんて、どこにもないんです」

かろうじて優希は笑顔を作ることが出来た。

「でも、私はそうであると信じたいです。

彼は、誰よりも私の痛みをわかってくれた人だったから」

「主任さん・・・」

先に涙を流したのは、優希じゃなく夫人の方だった。

車椅子から身を乗り出すようにして、優希を抱きしめてくれる。

「・・・本当は、彼を少し恨んでいます。

私は、心から彼と一緒にいたいと思っていました。

心から・・・彼を、愛していると。

あの先がどんな道であっても、決して不幸だなんて思わなかったと思います。

それなのに、その未来を奪った彼を」

うつむくと涙がこぼれる。その事が分かっていたので、優希の視線は空を見ていた。

笙一郎は、この空の上から自分のことを見ていてくれるのだろうか?

「しばらく、一人で整理しようと思います。いろいろありずぎたから・・・」

夫人が優しく優希の背中を撫でた。

その仕草に、優希の涙が溢れ出しそうになった。

 

 

「ダメだよう!!」

大きな声がして、驚いてその方向を向く。

そこには、岸川氏が息を切らして立っていた。

「主任さん、泣かしちゃダメだよう!!」

岸川氏は車椅子に駆け寄り、夫人に手を差し伸べた。

「違うのよ・・・」

夫人は夫をなだめようとした。

「いくら主任さんでも怒るよ。この人をいじめないでよ」

岸川氏は夫人の制止を聞かず、猛然と優希に抗議する。

その姿を見て、優希はずっとこらえていた涙を流した。

 

「岸川さんたちみたいになりたかったんです。

私は、あの人を許す存在になりたかった。

そして、あの人に許されたかった・・・」

 

いつかみた白昼夢。

笙一郎と二人、手を取り合う悲しい夢。

償いだけの日々でもいい。

二人で生きて行きたかった。

誰からでもなく、あなたに認めて欲しかったのに。

 

あなたは、どこにもいない。

胸が痛くて潰れそうだった。

 

 

「・・・ごめんなさい」

ひとしきり泣いて、優希はようやく顔をあげた。

「いいのよ・・・無理なんてしないで、ね?」

「そうだよ〜」

岸川夫妻が気遣ってくれる。

「はい」

自然に笑えて、優希は少しほっとした。

 

「そろそろ、おいとまさせていただきます」

優希がベンチから立ち上がると、岸川夫妻の視線も同時に動く。

「もう、行っちゃうの?」

夫人が心細そうな目で優希を見た。

「・・・はい。岸川さん、旦那さんも、お元気で」

「ありがとう。久坂主任も、お元気でね」

「ありがとうございます」

短い別れのやり取り。

優希は行き先を言わなかったし、岸川夫妻も敢えて聞かなかった。

 

夫妻を背にして、優希が歩き始めた時だった。

「主任さん」

婦人の声がして、優希はゆっくりと振り返る。

「私も、そうだと思うわよ」

「岸川さん…?」

「その方があなたを連れて行かなかったのは、あなたを思ってのことだと思うわ」

「ありがとうございます」

「もし、その時に連れて行くような男だったら、私が行って説教してあげたのに」

夫人がふふふっといたずらっぽく笑う。

 

「あなたは、認められていたのよ。許されていたの。彼に」

 

夫人の言葉は、いつも優しい。

「あなたが今、生きているのが何よりの証拠よ」

そうであって欲しいと思う。

優希は深々とお辞儀をした。

何かを言葉に出したら、また涙が出そうだったから。

 

「また、元気なお顔、見せてちょうだい」

「…はい」

かろうじてそう答えて、優希はまた歩き出す。

 

 

それはおろかな希望なのかもしれない。

または独りよがりの妄想かもしれない。

それでも、優希は信じている。

笙一郎が最期にくれたものは、紛れもない愛だということを。