Dreamer
ざわざわと音がする。
広い、海の波の音。
漫画でよくこういう擬音で表現しているけど、あながち間違っていないんだ。
それから、ちゃぷちゃぷという水音も。
それ以外の音は、いまは何もしない。 さっきまでは沢山の音が、声が、感情があたりをざわつかせていたのに。 沢山の人も、出来事も いまは、なにも、ない。
ちいさな船と、その中の女と、俺。 いま、ここにあるのは多分これだけだ。
ぎしりと古いボートが鳴った。 その音に促されるように、ボートの中を覗く。
女はまだ目を覚まさない。
ひっくり返らないように気をつけて、ボートを自分の方に傾ける。 白い顔をした女の顔が見えた。
顔を近づけて、耳を澄ます。 すうすうという呼吸音に、酷く安心する。
俺は何度、この行為を繰り返しただろう。
女の頬に、砂の粒が見える。 手を伸ばしてそれを取ってやった。
女の頬は柔らかくて、そしてわずかにあたたかった。
生きているんだ。 ぼんやりと、そう確信した。
あの島で何があったか。 俺にはもう思い出せない。
妹に会ったことも、朝倉に会ったことも、タン壺の爺さんに会ったことも、 なにもかも現実味がなかったからだ。
俺は、本当は誰にも会ってないのかも知れない。
ただ、はぐれた柴田をずっと探していた。 そのことだけは鮮明に覚えていた。
捕らわれていた気がする。 あの島の中だけか、いままでがずっとそうなのか、わからないけど。 俺は何かにずっと捕らわれていた気がするんだ。
捕らわれていたのは、何にだろうか。 妹、 朝倉、 復讐、 罰、 正義、
何かがずっと俺の枷になっていた。
いや、捕らわれていただけではない。 きっといつしかその枷が俺の生きている理由になっていたのだ。
最初は、妹を一人前に育てる為に生きていた。
妹を失った後は、その敵に復讐する為に生きていた。
多分、そうじゃなきゃ俺は今まで生き続けることが出来なかった。
捕らわれていたんじゃない。
俺が勝手に囲って、縛って、それに縋ってしか生きられなかったんだ。
目が覚めた気がした。 この何年間も、ずっと何かの夢を見ていた気がするんだ。
どれくらいこの大海原に浮かんでいるか、もうわからない。 きっと、体力的にはもう限界かもしれない。
けれど、ここでくたばる気も力尽きる予感も全くなかった。 体とは別の何かが、自分の中を満たしている感じがする。
海の水は、酷く澄んでいて、どこかの写真の中にいるようだ。 けれども、現実感があった。 水の冷たさも、頬を撫でる風も、しっかりと感じていた。
水音が、耳にやさしく響いた。
思考なんてきっととっくに停止している。 感情だけが、俺をいま生かしてくれている。
ただ、「生きたい」と思う。
生きて、この女が目を覚ますところを見たい。
それがきっといまの俺の全て。
女はまだ目を覚まさない。
何度目かになる女の呼吸を確認した。
蒼く、白い顔。
だから、空気の缶詰なんてやめろって言ったんだ。 思い出して、一人苦笑する。
手の甲でもう一度女の頬に触れると、やっぱりやわらかくてあたたかかった。
ざわざわと波の音がする。 ずっと昔から、そしていまも、これからも。 この音は絶え間なく続いているのだろう。
きっと、ずっと。 |