紅
「お前さ、化粧とかしないの?」 「え、しないとだめなんですか?」 「駄目だよ。失格。女失格。しろよ、化粧くらい」 「え〜、でも、お化粧するとお肌あれるんですよ〜」 「荒れろよ、荒れていいから化粧くらいしろって、な?」 「え〜、でも…」 「わかった、お前化粧道具持ってないんでしょ?」 「・・・」 パシッ 「図星かよ」 「いった〜。なんでたたくんですか?真山さん」 「なんで叩くんですかじゃないよ、お前。 普通持ってるもんじゃないの?口紅とかさ」 「持ってますよ。…でも」 「でもなんだよ?」 真山は胸のポケットから煙草を取り出して火をつけた。
真山の少しいらついたような空気に柴田はしぶしぶ鞄の中から何かを取り出した。 「何それ?」 柴田が取り出したのは古めかしい丸い小物入れであった。 柴田は不慣れな手つきでその入れ物を開けると、中には真っ赤な色をした紅が入っていた。 「紅です。人工の着色料などではなく、植物からとった昔ながらの紅なんです」 「ふ〜ん。これ、どうしたんだ?」 「昔、母から貰ったんです」 「何で付けないの?つければいいじゃん」 「はぁ。でも禁止されてるので」 「禁止?お袋さんに?そっか、お前お嬢様でしたっけ?」 真山がからかうようにそう言って、長くなった灰を地面に落とす。 「お嬢様じゃありません。ただ、これをつけると…」 「何だよ、さっきから。とっとと言えよ」
「これを貰った時に母から言われたんです。『男を誘惑するから、男の前では付けるな』って」
「誘惑?お前が?」 「はい。・・・ですから、貰ってから付けた事はありません」 柴田がそうきっぱりと言い切ると、真山は鼻で笑った。 「お前ね、そんなことあるわけないでしょ?ありえないね、お前に誘惑される男がこの世の中にいるなんて」 その完全に馬鹿にした真山の口調に柴田は怒りを覚えた。 「なんでそう言い切れるんですか?わかんないじゃないですか、いるかもしれませんよ?」 「いるわけないよ。ね、ちゃんと現実を見な、係長」 「じゃあ、付けてみましょうか?今ここで」 「へぇ、今つけたら俺がお前に誘惑されんの?ありえないね。無駄無駄。」 「…知りませんよ?そんなに自信があるんでしたら本当につけてみますからね」 「どうぞご勝手に。ま、無駄だと思いますけどね、お嬢様」 真山は完全に取り合ってくれない。柴田は半分意地で、半分悲しくて、人差し指に紅を付ける。
本当は母から貰った直後に一度だけ付けたことがあった。 家に誰もいない時に、鏡の前で。 初めて色付けされた自分の唇はとても綺麗で、妖しくて。 自分が大人になったような、それでいて自分ではないような妙な感覚に襲われた。 「この鏡の中にいる女なら男を誘惑するのかもしれない」 そんな恐怖が芽生え、あわてて拭い去った。 その後、帰ってきた両親とは目を合わせることが出来なかった。
「どうですか?」 初めて紅を付けた姿を人前に晒す。 しかも相手は男。 柴田は少し緊張していた。 男と目が合った。 緊張が、少しの快感に変わる。 「真山さん…?」 何もいわない真山に柴田はゆっくりと尋ねた。 すると、真山は咥えていた短い煙草を指に持ち替えた。 「お前、鏡見た?」 「は?」 少し予想外の反応に間抜けな声がでてしまう。 「鏡。あ、持ってないのか。じゃあ、そのガラスに自分の顔映してみな?」 柴田は首を傾げながらも素直に後ろにあったショーウインドゥを覗く。 そこにあったのは口裂け女と見まごう自分の顔。 「なんじゃこりゃ」 「おまえね〜、それじゃあ男誘うどころじゃないんじゃない?」 真山は笑いをこらえるのに必死の様子だった。 ・・・確かに。これじゃあ男を誘うどころか、笑いを誘ってしまっている。 柴田は泣きたくなった。ごそごそと鞄の中から先ほど街で貰った如何わしい宣伝つきのティッシュで口を拭う。 「あれ、取っちゃうの?勿体無い。」 真山が面白おかしそうにいった。 「…いいんです。どうせ、私なんか男も誘えない駄目な女なんです」 柴田はもう泣く寸前だった。紅の入った入れ物を握り締め、何とか涙だけは流さずに耐えた。 その時、背後から大きな手が伸びてきて、柴田が握り締めていた紅を奪ってしまった。 「も〜、何するんですか?返してください」 「男を誘惑するんだろ?俺がつけてやるよ。」 「え?」 「ほら、こっち向けって」 真山は短くなった煙草を地面に落とし足で踏みつけると、真っ直ぐ柴田のほうに向き合った。 そして、親指と人差し指で柴田の顎を軽く持ち上げた。 柴田はその仕草が映画や小説の中で出てくるキスの前にやる仕草と同じである事に驚き、体を硬くした。 「何硬くなってんの?力抜けって」 真山が少し笑ってそう言った。指の先はすでに紅く染まっている。 「はい…」 柴田は体の力を抜いた。 「そうそう。あと、唇少し開いて。」 真山に言われるがまま、唇を開く。
女は、自分の唇に触れている男の指が酷く優しいのに驚いた。 いつも自分の頭を殴ったり、頬をつねったりしているのと同じ指とは思えない程、男の節だった長い指は優しく、ゆっくりと唇の形をなぞる。 その仕草が、まるで壊れ物を扱っているようで、自分が愛されている様で。勘違いだと頭でわかっていても眩暈がする。 女はゆっくりと目を閉じた。
男は、自分が触っている唇がとても柔らかいのに驚いた。 いくら小汚いとはいえ、こいつは女で、自分は男である事を急に意識してしまう。 もう少し、この感触を味わいたくて、ゆっくりと女の唇をなぞる。 不意に、女が目を閉じた。何故か以前この女に口付けをした事が脳裏を過ぎる。 目を瞑り、かすかに口を開いたその表情はまるでキスをねだっているようだった。 透けるほど白い女の肌に紅い唇は良く映えて。口元にあるほくろと相成って女を美しく、妖しく魅せた。
「ほら、もういいぞ」 真山はわざとぶっきらぼうに言って、柴田から体を離す。 柴田はゆっくりと目を開け、後ろを振り返る。 再びガラスに自分の姿を映した。 「…私じゃないみたいです」 そう独り言のように呟いた。 「塗ってやった人の腕がいいんだろ?」 真山は再び煙草を取り出し、火をつけながら答えた。 「そうですね。…真山さんに塗っていただいている間、なんか気持ちよかったです。」 柴田が真山の方を振り向いて言った。 真山は柴田をじっと見た。 「どうしました?あ、やっぱり誘惑されました?」 柴田が冗談で言った。 そう、彼女にとってはほんの冗談のはずであった。 しかし、上目遣いで少し笑ったその表情は男の理性を壊すのに十分だった。 「うん」 真山は真面目な声でそれだけ言うと、柴田に一歩近づいた。 「またまた〜、だまされませんよ?真山さん」 そう柴田が言った瞬間、真山は再び柴田の顎をすくい、紅く色づいた唇に自分の唇を重ねた。 「…んっ」 柴田が声にならない声を出す。 真山はそれに構わず、柴田の唇を開き、深い、深いキスをする。 柴田は初め、体を強張らせていたが、次第に甘い物が体中を駆け巡り、力を抜いた。 いや、力を入れることが出来なくなっていた。
永い、永いその一瞬が終わり、真山は柴田の唇から離れる。 名残惜しそうな柴田を無視して、ショーウインドウを覗き込んでいる。 「あ、やっば口紅ついちゃってるじゃん。ティッシュ貸せ、柴田」 「あ、はい」 柴田があわてて鞄の中からティッシュを出すとそのティッシュで真山は唇を拭いた。 「おまえ、やっぱその口紅、しないほうがいいわ。なんかまずいし、禁止ね」 「…はぁ」 柴田はまだぽかんとしている。 真山はもはや何事もなかったかのように煙草をふかしている。 「何?」 「いえあの、どうしたらいいのでしょう?」 「何が?」 「その、真山さんは私の事が好き…と捉えてよいのですか?」 パシッ 「自惚れんじゃないよ」 「いてて…でも。今のキスは」 「お前に誘惑されたの。じゃなかった、その口紅にな」 「では、もうキスはして下さらないんですか?」 「何?して欲しいの?」 「はい。キスがあんなに気持ちいいものだとは知りませんでした。真山さん、お上手ですね」 「そりゃどうも」 「そうか、この口紅付けたらまたキスして下さるんですよね?」 真山が少し笑った。困ったような、嬉しいようなそんな笑い方だった。 「気が向いたらね」 「気が向いたら、ですか」 「そう」 「じゃあ、気が向いてもらえるように頑張ります」 「あっそ。せいぜい頑張って」 「はい!」 柴田が満面の笑みで答えた。 真山も顔をくしゃくしゃにして笑った。 柴田は紅をくれた時の母の言葉を思い出していた。
「この紅をつけたら男の人を誘惑するから、男の人の前で付けちゃいけませんよ。 −ただし、好きな男の人ができたら、その人の前でだけなら付けてもいいわよ」
「真山さん」 「ん?」 「私、この口紅を付けるのは真山さんの前だけにします。」 「ふ〜ん。好きにしたら?」 「はい、好きにします」 |