ご:空

 

 

 

 

柴田は困っていた。

また道に迷ったのだ。今日だけでも道に迷うのはこれで三度目だ。

別に自分ひとりならこんなに困ったりしない。

生まれつきの方向音痴のせいで、道に迷うのはどこかに行く上で当たり前の事だと思っているから。

だから、困っているのは道に迷ったと言う事ではない。

自分の後ろを歩く男の機嫌を損ねるのが嫌なのだ。

 

後ろを歩く男に気付かれないように、ちらりと振り返った。

真山と言う名のその男は、ぼんやりと空を眺めながら、柴田の後ろをついてくる。

その姿に、柴田は違和感を覚えた。

いつもの真山に見えるが、どこか違う。

上手く言葉に出来ないその違和感に、一瞬で柴田の脳はその男の事でいっぱいになった。

 

「・・・何だよ」

暫くして、柴田の異変に気づいた真山が声を掛ける。

ほら、やっぱりおかしい。

真山は、柴田の変化に敏感だ。

柴田自身でさえ気付かないくらいの彼女自身の変化を、いつも察知してわかりにくい心配をしてくれる。

鈍い柴田でもそれくらいはわかっている。

 

「どうした?」

もう一度、真山が柴田に訊いた。

「・・・真山さんこそ、どうしたんですか?」

柴田が眉をひそめて真山に聞き返した。

「何それ?新しい遊び?」

「・・・違います。純粋に真山さんの事を心配してるんです・・・」

心配そうな柴田の表情を見て、真山が少し笑った。

「別に何でもないよ」

あ、まただ・・・

笑ってるのに寂しそうな真山の表情に、柴田はまた違和感を覚える。

「そんな事なんかよりさ、もっと他に心配する事があるんじゃないの?」

「・・・何ですか?」

「お前さ、道に迷ってない?」

「・・・え?そ、そんな事ありませんよ・・・」

「嘘付け、ここさっきも通ったんだけど?ってか今日何回目?道に迷ったの」

「さすが真山さん・・・気付いてました?」

「あー、もーヤダ。なんで俺がいっつもこんな目に遭わなきゃいけないわけ?」

「すみません・・・あれー?駅ってあっちですよね?」

「こっちだよ!・・・何?駅に戻んの?」

「あ、はい。いったん戻った方が目撃者の方のお宅が近いと思うんですよねー」

「当たってんだろうね?」

「はい。目撃者のご住所が『駅前通』なので確かかと・・・」

「早く言えよ!」

「すみません・・・」

「はぁ・・・もういいよ。とりあえず駅まで行くぞ。俺が先歩くから、ついて来い」

「あ、はい・・・」

 

柴田の横を真山が通り過ぎる。

いつもと同じようなやる気のない足取りなのに、やっぱりどこか違う。

けれども、真山にいくら言った所で上手くかわされてしまうだろう。

柴田は肩にかけたトートバックをぎゅっと握り締めた。

何も言わない真山の後ろ姿に黙って付いていった。

 

 

真山は柴田に気付かれないように回りを見た。

あまり感傷は持たない性分だが、懐かしい風景に思わず目を細めた。

 

そう、ここは数年前まで俺と妹が住んでいた街。

 

幼い沙織を連れて買い物に来た古い商店街。

あの魚屋は沙織の事を気に入っててくれて、よくサービスしてくれたっけ。

そこの八百屋は値切るのと安くしてくれて・・・

スーパーが建っても商店街で買うほうが安いからと、しっかりものの沙織はこの商店街で買い物をしていた。

・・・そういえば、いつの間に沙織が家事をやってくれるようになったんだっけ。

両親が死んだ後、最初は俺が沙織の世話や家事一切をやっていた気がするのに。

「いつでもお嫁に行けるね」

沙織はいつもそう言って笑ってた。

とても、幸せそうに。

 

 

不意に、真山の足が止まった。

真山に倣って柴田も歩みを止める。

二人が止まったのは、入り組んだ路地の古びたアパートの塀の前。

「・・・真山さん?」

柴田がもう一度、真山を心配そうに見上げた。

真山はそれに答えず、塀をじっと見た。

 

「おとーさーん、おかーさーん」

そのアパートから幼い少女の声が聞こえてきた。

そして続けて聞こえた少女とその家族の笑い声に、真山の表情がふっと柔らかくなった。

一瞬で、真山の表情から妙な緊張感が消えたのだ。

「真山さん?」

思わず柴田が声を掛けた。

真山がゆっくりと柴田の方を見た。

「昔、ここに住んでたんだよ」

「え?真山さんが?」

「うん。沙織とね」

「沙織さんと・・・?」

柴田は真山の目をじっと見た。

「うん・・・むかーし、ね」

真山は塀にもたれてポケットに手を突っ込んだ。

 

「その時に戻りたいですか?」

柴田が思わず口に出す。

…それは、きっと口にしてはいけない言葉であるとわかっているはずなのに。

その言葉に真山は一瞬驚いたように動きを止めた。

はっと気がつき、柴田は慌てた。

「すみません・・・あの・・・」

上手く言葉が続かない。

しかし、おろおろする柴田の様子を見て、真山がまた笑った。

「戻れないからな」

「はい?」

 

「戻れないし、戻りたいとも思わないよ」

そう言って、真山は真っ青で澄んだ空を見上げた。

それから、皮の手袋をはめた手を口元に持ってきて、はぁっと白い息を吐いた。

指の間に見え隠れする口元が優しかったのに、柴田はほっとした。

 

「それに今は、どっかの方向音痴を駅まで連れて行くのに忙しいからね」

真山は自分と同じように空を見上げる柴田の頭をぽんと叩いた。

「昔の事思い出してるヒマなんてございません」

かすかに頭に残る真山の感触を確かめるように、柴田は自分の頭をなぞった。

そんなわけはないけれど、そこにはまだ真山の手のぬくもりが残っているような気がした。

 

「ほら、行くよ?」

真山が歩き出した。

柴田も、当然それに倣って歩き出す。

 

「・・・真山さん」

「んー?」

「じゃあ、真山さんの頭の中は私でいっぱいと言う事ですか?」

「・・・何それ」

「えへへ・・・そうか・・・私で頭いっぱいかぁ・・・」

「何言ってんの?なわけないじゃん」

「じゃあ、これからもいっぱい真山さんを困らせようっと」

「しばたぁ〜?」

 

他愛もない言い争いを終えて、二人一列で歩く。

さきほどとは違い、柴田は背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見た。

寒さで少し曲がった、大きな真山の背中。

今は、何も言わなくていいからその背中をずっと見ていたいと思った。

 

柴田の耳にかすかな口笛が聞こえた。

真山が吹いているんだろう。

その表情は柴田の方からは伺えないが、あの空のように晴れ晴れとした表情をしていてくれたらいいなと思った。