に:屍
「救急車、お願いします。場所は…多摩桜病院近くの公園」 俺は、説明もそこそこに電話を切り、急いでまたあの公園に向かった。
笙一郎が、死んだ。 母親の手で、自分を殺させた。 結局、アイツはずっと救いを求めていたのに、救われなかった。 馬鹿なヤツだ。 本当は、アイツが求めていたものはずっとそばにあったのに。 それに気付かないで一人で逝ってしまったアイツは、愚かで悲しいヤツだ。
馬鹿なヤツ。
走っている俺の目に涙が滲む。 それは、侮蔑でも同情でも悲しみでもない。 一緒にあのころ苦しんでいたのに、アイツの苦しみを解ってやれなかった自分への後悔だ。 アイツは、俺の事を心配してくれたのに。 あの頃もそうだった。 一歩後ろで、アイツはいつも俺と彼女のことを静かに見守ってくれていた。 自分も傷つき、苦しんでいたと言うのに。 一人で悩んで、一人で全て背負って。 俺たちは、仲間じゃなかったのか。
でも今は、彼女の事を心配しなければ。 優希は、笙一郎の事を愛していた。
笙一郎が命を絶った今、彼女まで一緒に逝ってしまうかもしれない。 それだけは止めなければ。
お願いだ、笙一郎。 彼女まで連れて行かないでくれ。
まだ花が咲く気配さえない桜の木の下。 寄り添うように、後ろ姿の優希と笙一郎の母親、まり子さんが座っていた。 優希の膝の上には笙一郎が抱かれるように横たわっている。 優希の細い指が、まり子さんの背中を優しく撫でている。 ああ、一緒に命を絶つことはしなかったのだと安心した。
ゆっくりと背後から近づく。 かすかに、歌が聞こえた。 「ねーんねーん、ころーりよ おころーりよー」 それは、悲しいくらい透き通った優希の子守唄だった。 笙一郎とまり子さんに交互に優しく語りかけるように唄っている。
「…馬鹿ね…」 歌が途絶えて、優希の呟くような声がした。 優希の手が、優しく笙一郎の頭を撫でる。 「一緒に行ってあげるって言ってるのに」 後ろからで表情は伺えなかったが、きっと優しい顔をしているのだと思った。 まるで聖母のように。
「モウルはいっつもそう。みんなのことばっかり心配して、おせっかいいっぱい焼いて… 自分の方が苦しいのに、いつも静かに笑って、平気なふりして… 本当は一番苦しんでるのに、一番助けを必要としているのに」 まり子さんが心配そうに優希の顔を見上げた。 「馬鹿ね。私だって、貴方を助けてあげたかったのに。貴方の力になりたかったのに。 一人で…まり子さんも私も置いて、一人で逝っちゃうなんて、ズルイよ」 「おかーちゃん…」 まり子さんの方を少し見て、優希が微笑んだように思う。 「言いたい事だけ言うだけ言って、私の言いたい事聞いてくれないなんて、酷いよ」
それから、背筋をしゃんと伸ばし、決して大きくはない声で、呟いた。 「長瀬くん。あなたを愛しています」
そして優希の顔がゆっくりと笙一郎の方に近づく。 キスをしているんだろう。
俺は、その場から動けなかった。 「馬鹿やろう」 それだけを笙一郎に向かって呟き続けた。
馬鹿やろう、優希を泣かせやがって。 馬鹿やろう、女にそんなこと言わせやがって。 馬鹿やろう、一人で悩みやがって。
馬鹿やろう、少なくとも俺と優希はお前が好きだったよ。 その、優しさを、強さを…そして弱さを。 お前に憧れて、お前を慈しんで、お前を愛したよ。 それはお前が望むものと違ったのか? 心の傷なんて簡単に治らないことを俺は知っているけど。 それだけはわかって欲しかったよ。
「長瀬くん」 また優希の声がする。 「もう、大丈夫だよ。ゆっくりとお休みなさい」
ああ、やっとわかった。 この感じ、学生の頃に教科書で見たあの像と一緒なんだ。 「ピエタ」、亡骸になったキリストを抱く聖母マリアの像。 芸術なんて全くわからない俺が、何故か惹かれて仕方なかった唯一の作品。
聖母マリアは、本当に自分ではなく「神の子」のキリストを愛したのだろうか。 本当の子供でさえ、母親に愛されないことを俺たちは確かに知っている。 血の繋がってない子をマリアは愛せたのだろうか。 その腕に屍となったわが子を抱いて、何を思ったのだろうか。 その答えが、その像に全て表現されているような気がした。 慈愛と悲しみに満ちた、その美しい表情。 血が繋がっていなくても自分をかわいがってくれる養父母もそうだといいと密かに願った。
ああ、やっぱり優希は笙一郎にとって紛れもなく「聖母」だったんだ。
笙一郎はきっとこんな死を願って死んで、そしてそれが叶った。 彼女に抱かれて、最期を迎える事を。 最後の最後に、少しだけコイツも救われたんだ。
「…有沢君?」 優希が俺の存在に気付いた。 思ったよりも穏やかな表情の優希に安心をした。 「ああ、今電話してきた。救急車、もうすぐ来るよ」 「…ありがとう」 優希が穏やかに微笑んだ。 俺は優希の前に回りこんで、笙一郎の顔を見た。 「…穏やかでしょう?長瀬くんのこんな顔、見たことないわ」 優希が愛おしそうに笙一郎を見た。 「ああ。やっと苦しみから解放されたんだろうな」 「そうね。…お疲れ様、長瀬君」 そう言って、俺たちの聖母が優しく微笑んだ。
遠くで救急車の音が聞こえた。 俺たちは、まだ生きなければいけない。
もうちょっと、待っててくれよ。笙一郎。 あっちに行ったらお前のこと2・3発は殴らせてもらうからな。 それから、また三人で一緒に酒を飲もう。
今度は、楽しい酒を。
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