64:プレゼント

 

 

 

真山の部屋は小さな石油ストーブだけに暖房類の一切を頼っていた。

むき出しの床はさすがにこの時期は冷たすぎて、柴田は思わずベッドの上に座っていた。

壁を背にして、体育座りで自分の体をぎゅっと抱え込む。

右手を軽く挙げ、腕にはめている時計の音を聞こうとした。

しかし、壊れた時計は時を刻むはずも、音を立てるわけもなく。

柴田は、はぁーと大きなため息をついて、目を伏せた。

 

「やめろよ。人んちでため息は。辛気臭いでしょ?」

いつの間にか風呂に入っていたはずの真山が、ベッドの近くにいた。

ぺたぺたと真山の素足が音を立てて、それから柴田の隣にどかりと座る。

柴田は真山の動作を目だけで追っていた。

真山が濡れた髪をタオルでぐしゃぐしゃと拭いた。

風呂上りなので紅くほてっている真山の頬がかわいらしくて柴田はクスリと笑った。

「・・・何?」

「え!?」

ひそかに笑ったはずなのに、気付かれたかと柴田が少し慌てる。

「さっきのため息。なんかあったの?」

あ、そっちのことねと柴田は安心して、真山の方を向いた。

「・・・時計が」

「ああ、嫌味な東大時計ね」

真山は柴田の話を聞きながらもまだわしゃわしゃと頭を拭いている。

「あの・・・厄神島で壊れたんですよ」

「へぇ」

「修理に出して、一回直ったんですけど・・・やっぱりもう駄目なんですかねぇ・・・」

柴田がもう一回ため息をついて、それから腕時計をじっと見つめた。

 

東大に入ったとき、もう一緒にいてくれる麻衣子はいないのだからと自分で買ったこの時計。

思えば、初めて買った高い買い物だったかもしれない。

警視庁の試験の時も、初登庁の時も、いつも一緒にいてくれたこの時計をどうしても手放すことが出来なかった。

 

「・・・貸してみな」

真山の腕がするりと柴田の方に伸びてきて、片手で器用に時計を外す。

いつの間にか煙草を咥えている真山は、その時計をしげしげと見た。

「直りますか?」

「知るかよ。時計屋さんじゃないもん」

真山は時計の裏を見たり、横のねじを回したりしている。

「ねぇ、これって電池代えた?」

「あ、はい。えーっと・・・夏に一回」

「あっそ。じゃあもう駄目なんじゃない?」

「・・・そうですか・・・真山さん、わかるんですか?」

「ん?全然」

時計を柴田に返すと真山はゆっくりと煙草の煙をくゆらせる。

「全然って・・・さもわかるような口ぶりでしたけど」

柴田は少しあきれて真山に言った。

「だって、それ大学の時のでしょ?もういい加減やめろよ。『東大ちゃん』」

真山がにやりと目だけで笑う。

柴田は少しふくれた。

「・・・金太郎さんの真似ですか?」

「ううん。ただの嫌味」

けけけと愉快そうに笑うと真山がゆっくりとその場を立った。

楽しそうに自分をからかう真山に柴田はすこし腹が立って一人むくれた。

どこかに行く真山を見ようともせずに、手の中にある時計を見つめる。

 

別に自慢でつけているわけじゃないのに。

「これでやっと私も柴田の時計係免除だね」

この時計を初めて見せた時の麻衣子の台詞が蘇る。

麻衣子がいなくてもいいように。

ちゃんと一人でもやっていけるように。

そういう願いも込めた時計なのだ。

 

涙が出そうになった時、膨らませた柴田の頬を真山が指で挟んだ。

ぶっと間抜けな音がして、頬にためていた空気が漏れる。

柴田が恨めしそうに真山の方を見上げると、真山は煙草を咥え涼しい顔をして柴田を見下ろしていた。

「・・・やるよ」

真山が何かを柴田に投げてよこした。

小さな放物線を描いて、それは柴田の膝の上に乗った。

 

「・・・時計?」

それは、少し古くなった腕時計。

動いてはいないものの、黒い皮のベルトはまだ綺麗だ。

「昔使ってたんだけど、もう使わないからさ。電池入れれば生き返るでしょ?」

真山がもう一度柴田の隣に座った。

柴田が呆然とその時計を見つめている。

「別にいらないんならいいけど。男物だし」

それを横目で見た真山が煙草を咥えながら言った。

「・・・いただいてもいいんですか?」

柴田がやっと真山の方を見た。

「安物だよ?古いし。次のを買うまでのつなぎにはなるでしょ」

「つなぎ・・・」

真山の腕がまた柴田のほうに延びてきて、時計と柴田の腕をつかんだ。

それから、今度は両手で柴田の腕に時計をはめた。

「・・・やっぱでかいな。ちょっと待ってろ」

柴田の腕には大きすぎるその腕時計は一番内側の穴でも、今にも腕からするりと抜けそうだった。

真山がどこからかはさみを持ってきて、柴田用の穴を開けてくれた。

ちゃんと腕には合っているものの、大きなフェイスが柴田の小さな手と細い腕にに比べると大きすぎてアンバランスだ。

「・・・重いです」

「贅沢言うな。早く新しいの買えばいいじゃん。ただでさえ時間に無頓着なお前が時計を持たないなんて、俺は怖いよ」

真山が心から嫌そうに言葉を吐いた。

柴田はそんな嫌味にも気付かないようで、腕時計をじっと見つめている。

 

「何?そんなに気に入った?」

「はい。私これをつなぎじゃなくってずっと使ってもいいですか?」

冗談で言ったのに、と真山はすこし調子を狂わされた。

「それ・・・男物だよ?古いデザインだよ?俺のお下がりだよ?それでもいいの?」

「はい。ずっと、大事にします」

柴田が幸せそうに笑った。

 

「よくわかんねー。お前って」

真山が首を捻った。

「え?私がですか?」

「うん。さすがだね。この天然記念物」

「ええー?普通の女の子のはずなんですけどねぇ・・・」

「どこが?ねぇ、4日も風呂に入らなくて異臭を放つキミのどこが『普通の女の子』なの!?」

「あー、それはですね・・・忙しくって」

真山は鼻で笑うようにため息をつくと、煙草の吸殻を入れた灰皿を持って台所に消えた。

 

柴田は、もう一度じっくりと腕時計を見つめ、そして真山が使ってたであろう少し伸びたベルトの穴を指でなぞった。

私があの時計と一緒に沢山の時間を過ごしたように、この時計も真山さんと同じ時間を過ごしている。

真山さんの色々な時を共有して、そして様々な場面に立ち会っている。

そんな時計をもらえたことが酷く嬉しかった。

 

灰皿を空にして戻ってきた真山に柴田が静かに言った。

「真山さん、私これ大事にします。一生使い続けますから」

「一生?」

「はい。ずーっと使い続けて、それで、死ぬ時は一緒にお墓に入れてもらうんです」

「そんなぼろい腕時計を、ねぇ・・・」

「ちゃんと一緒に入れて下さいよ?真山さん」

柴田の言葉に真山は苦笑した。

 

柴田は、あまりにも当たり前にこの先ずっと俺といる事を考えていて、俺は全く先なんて考えていない。

俺が柴田を手放す日が来るかもしれないし、柴田が俺の前から消えてしまうかもしれない。

 

失うことの悲しさは、痛いほどわかっているから夢なんて見ないできた。

 

けれども、それを疑うことなく信じている柴田を、とても強いと思った。綺麗だと思った。

例えば、古ぼけた時計一つにさえ喜ぶことの出来る純粋さが。

それに比べ、擦れた俺はなんて弱くて醜いのだろう。

 

 

未だににこにこと時計を見ている柴田に真山が唇を寄せた。

「真山さん?」

少し戸惑っている柴田の声を無視するように、押し倒す。

 

体を寄せ合うことは、想いを伝えるだけではない。

寂しさを抱えきれなくなった時に、それを少しだけ吐き出す、そのためにもあるのだと真山は思う。

かつて、先の見えない戦いの時に、金で買った女としたように。

もちろん、そんな女では柴田はないのだけれど。

少しだけ後ろめたさを感じて、それでもなお真山は柴田に縋った。

せめてもの償いにと、ありったけの愛情を込めて。

 

ほんの少しでいいから、俺にも夢を見させてくれ。

綺麗な、穢れない夢を。