56:電気 

 

 

 

 

昔、むかし。

一度だけ母に聞いたことがある。

 

「人を好きになるってどんな感じがするの?」

母は、笑って答えた。

「そうねぇ、電気が通るの」

「電気?」

「・・・そう。ビリっとしたり、ちくっとしたり、じわじわ来たり」

 

深く考え込む私に、母は優しく言ってくれた。

「あの感じは、うまく説明できないの。・・・でもね、必ずわかるわ。その時が来たら」

 

その時が来たら。

 

 

『その時』は、いつ来るのだろう。

その時を私は、じっと待った。

本当にただじっと。何もせずに待ち続けた。

その時が来たのに気づかないくらいに。

 

 

 

 

初めに電気が通ったのは、あの人の部屋での事だった。

突然、襟元をぐっと掴まれた。

 

「殺らなきゃ、お前が殺されるぞ」

 

その瞬間、息が詰まった。

 

最初は、違う痺れだと思った。

あの人は、言ったのだ。

『人を殺せ』と。

 

その言葉の方が、私の中でずっしりと重かった。

人の命を犠牲にしてまで、自分は生きる意味などないと思った。

どうして、この人はそんな恐ろしい事を口にするのだろう。

怖くてたまらなかった。

 

その言葉が重過ぎて、その時の自分の気持ちにまで気づかなかったのだ。

 

 

電気を認識したのは、それから少ししてから。

 

きっかけは、またあの人の言葉だった。

 

もう朽ちた映画館。

あそこの匂いは、きっと忘れない。

埃っぽくって、息の詰まるような。

 

その中で、あの人は愛用の煙草を静かに吸った。

いつものように、自然な動作で。

それでも、どこか懐かしそうに、味わうように。

最期の一服。

あの人はそう思っていたのだろうか。

 

一通り、自分の「真実」を言うだけ言って、

あの人は私の言葉を背中で聞いていた。

私の方から見えるのは、その背中と昇る紫煙だけ。

 

いつもと同じようにしか見えなかったけれど、いつもよりも大きく感じる背中。

そして、なによりも小さく、儚い背中。

 

「・・・お前には、生きてて欲しいんだよ」

 

その言葉を聞いたとき、頭が真っ白になった。

 

私の方からは、あの人の表情が伺えない。

その言葉を、どんな顔で言っているのか知りたかった。

 

笑っていて欲しいと思った。

いつもみたいに、私を馬鹿にして。

数分後には「冗談だよ」と笑い飛ばせるような。

 

 

 

ようやくわかった。

「殺らなきゃ、お前が殺されるぞ」

あれは、自分を守れなどという彼の親切心などではなかったのだ。

 

誰を犠牲にしても、あの人は私に生き残って欲しかったのだ。

妹さんと同じ年齢だと言う、私に。

例え、自分が息絶えてしまっても。

 

 

「法も、正義も、その瞬間は何も守ってくれない」

あの人は、そうも言った。

 

だから、法や正義の代わりに、その言葉で私を守ろうとしたのだ。

その言葉が、あの人の手の代わりに私の身を守ってくれる。

心の奥に響けば響くほど。

 

でもね、私だってそうなんですよ。

誰よりも、貴方に生きていて欲しいんです。

 

そう言おうとしたのに、唇が、喉が、体が言う事をきかなかった。

 

時間差で感じた初めての電気は、何よりも強く、私の全身を痺れさせた。

大きすぎて、それと気づかないほどに。

 

言葉の代わりに、涙が目の前で滲んだ。

 

お母さん、私が見つけたものはそんなにいいものじゃなかったよ。

どちらかと言えば、きっとそれは苦しくて、痛いもの。

 

でも、それでも。

守りたいの。

私には出来ないかもは知れないけれど。

 

だって、電気を感じちゃったんだもん。

時間差で来る、意地悪な電気。

あの人らしいのか、私らしいのか、それはわからないけれど。

 

頑張ってみるね。

ただ、純粋に生きてて欲しいから。

 

大好きなあの人に届きますように。