40:理系

 

 

 

 

馬鹿馬鹿しいということはわかっているのだけれど。

それでも、時々考えてしまうことがある。

 

もしも、仮に、例えば。

あなたに会わなかったら、私はどうしてたのだろう。

 

 

 

季節は春のはずだった。

しかし、寒い日々が続いている。

柴田は真山の部屋のベッドの中にもぐり、身動き一つせずにじっと何かを考えているようだった。

寒いのが大の苦手な真山も、同じようにベッドにもぐりこんではいたが、特に考えることもなく、

買い置きの煙草も切れたりしていたので、ただじっと柴田を見ていた。

動かない柴田は、本当に何かの置物のようだ。

まばたきもたまにしかせず、目を見開いてじっとどこかを見つめている。

つっついても反応ひとつ示さなかったりするのが逆に面白くて、真山は飽きもせずに柴田を見ていた。

長い睫毛が重そうに、その大きな瞳が瞬く瞬間をじっと待って。

 

「・・・真山さん」

不意な柴田の問いかけだった。

真山は少し驚いて、しかし柴田からはわからないようなわずかな反応のみで、次の瞬間には視線だけで聞き返した。

器用に少し上がる真山の眉を見つめ、柴田は促されるように続けた。

「もし、私が弐係に研修に来なかったら、真山さんは今頃何をしていると思いますか?」

それは、真山に観察されている間中、柴田が考えていた事だった。

真山はあまり考えずに答えた。

「さあ?」

その返事に、柴田の瞳はほんの少しだけ力を強くなる。

それはずっと柴田を観察していた真山にしかわからないようなわずかな変化で。

それでも、ちゃんと答えろと言いたいかのようだった。

 

真山が短いため息をつく。

その息で柴田の髪が少しだけ揺れた。

「・・・だってさ、考えたってしょうがないでしょ?そんな話」

仕方なくそう付け加えた真山に、柴田は今度は納得したように軽く頷いた。

「そう言うと思ってました」

なんとなく柴田に先回りされたようで真山は少しむっとした。

「真山さんって、理科とか数学とか得意だったでしょう?」

「は?今度は何?」

「この間読んだ本に書いてありました。男の人は理数系の頭で、左脳でモノを考えるせいで理論的で現実的なんだそうです」

「ね、俺法学部卒なんだけど?」

「え?」

「法学部って文系じゃない?普通」

「あ、そうなんですか?」

「理系の得意な男も、文系の得意な男もいるの。ね?」

「なるほど・・・」

「ってかさ、お前のほうが考えかたは理系じゃない?」

「え?私ですか?」

「うん。トリックとかアリバイとかさ、理屈で考えるじゃん。そういうのを理系って言うんじゃないの?俺には出来ないね。うん」

「そういわれてみれば、そうかもしれません」

「・・・・お前さ、苦手な科目とかあった?」

「ありましたよ?」

「あ、アレでしょ?体育とか美術とか家庭科とか、そっち系?」

「・・・どうしてわかるんですか?」

「それぐらいわかるよ。不器用だもんね、お前」

真山がくくくと可笑しそうに笑った。

「・・・真山さんはそう言いますけど・・・」

柴田の手が、少しだけ真山の方に伸びた。

「私、実は自分の事そんなに不器用だとか思わなかったんですよ?」

「マジで?そこまで不器用なのに気づかないって相当だね?」

「・・・はい。真山さんに言われて、初めてそう自覚したんです」

 

 

初めての色々なこと。

私の中にある、知らなかった自分のこと。

存在にすら気付かなかった、初めての気持ち。

沢山の「はじめて」を与えてくれたのは、他でもないあなたでした。

 

 

「・・・もし」

柴田は真山を見ずに、ゆっくりと言った。

「もし、私があの時弐係で、真山さんに出会わなかったら・・・」

真山は何も言わず、黙って柴田の唇を見た。

「きっと、ずっと、何も気付かずに、何も知らずに生きてたと思います」

泣きたくなるような幸せな気持ちも、

何もかも満たされるような優しいぬくもりも、

そして、痛い現実も。悲しい痛みも。

まさに、王子様を待って眠り続ける無知なお姫様のように。

 

 

 

突然、柴田の視界に真山の指が見えた。

柴田が真山の方を見上げると、どこか寂しそうな真山の顔がある。

真山の指は、柴田の瞳を守る長い睫毛にさらりと触れる。

「・・・何も知らない方が、幸せなんじゃないの?」

 

確かに、他と比べてしまわなければ、何も知らないことはとても幸せだ。

現に何も知らないあの頃の柴田は幸せだった。

 

 

・・・でも、

それでも。

 

「私は真山さんに会えてよかったです」

 

淀みない口調で柴田は言った。

それだけで、彼女の強い意志と、迷いのなさが伝わってくる。

 

真山はそれがとても愛しくて、でも少し悲しくて。

柴田がずっと夢見ていた世界から冷たい現実に目覚めさせてしまったのは、間違いなく自分だ。

「・・・柴田」

真山が声を掛けると、柴田はただ黙ってぎゅっと抱きついてきた。

「何も言わないで下さい」と言う柴田の声が聞こえてくるようで、真山は黙って柴田を抱き返す。

 

 

きっと、柴田は知っているのだ。

真山が柴田に対して罪悪感を抱いている事を。

柴田と出逢ってしまった事を後悔している事を。

 

 

「・・・真山さん」

柴田の声は、いつも優しい。

「しあわせです」

真山の胸の奥まで行き渡る柔らかな声、優しい音色。

「私は、とても幸せですよ?」

真山は何も言えず、ただ柴田を抱きしめた。

柴田も真山から何も聞こうとはしなかった。

 

ただ、柴田は祈った。

いつか、自分を抱く真山の胸の中から後ろめたさが消えてくれる事を。

真山は何も悪くはないのに。

現実の世界を望んだのは、他でもない柴田だから。

 

 

 

もしも、お前に出会えてなかったら。

俺はきっと生きていないだろう。

朝倉との闘いで命を落としていたか、それとも目的を果たして抜け殻のような人生を過ごしていたか。

どっちにしろ、生きている実感なんて味わえなかっただろう。

 

何もかもが冷たい現実で、

でもその中にある唯一の温かさ。

 

それを手に入れた代償が、きっと一生消えないこの罪悪感ならば、俺はそれごと抱えて生きていこう。

 

もう、お前なしではきっと生きられないのだから。

 

「お前と出会わなかったら、今頃どうしていたのだろう」

そんな他愛もない想像が、恐ろしくて出来ないほどに。