36:やめて
季節の変わり目は、慎重になる。何事も。
がちゃりとドアが開かれ、見慣れた部屋の風景が目の前に広がる。 真山さんの部屋。 もう、何度も何度も通った、自宅でも仕事場でもない他人の家なのに自分の居場所であるこの部屋。 以前は感じた「よそのお家のにおい」を感じなくなってどれくらいが経つのだろう。
靴を脱いで、部屋に上がる。 先に部屋に上がった真山さんは一直線に冷蔵庫に向かって行った。 「もう、随分温かいですね〜」 私は真山さんの部屋に漂う空気が、少し前とは随分違っていることに気付いた。 「今頃そんなこと言ってんの?とっくに桜散ったじゃん」 真山さんは手にペットボトルを持って、首元のネクタイを緩めながらこっちに歩いてきた。 「・・・よかったですね?」 私は、ベッドに深く座って足をぶらぶらさせていた。 「何が?」 冷めた口調で言いながら、真山さんが隣に座った。 「真山さん、寒いの嫌いですよね?あったかくなって、よかったですねー」 「・・・なにそれ」 真山さんはすこし笑って、ペットボトルに口をつけた。
私は、寒さや暑さが、特別好きでも嫌いでもない。 けれど、寒い時は真山さんの機嫌があまり良くないので、あまりいい気持ちはしないのだ。 真山さんは寒いのがとても苦手だ。 それでも寒い日の夜、一緒のベッドで寝るときに私のとても冷たい足をしかめ面になりながら暖めてくれる真山さん。 寒い間は当たり前になっていて、それは温かくなってなくなってから初めて気付く。
当たり前になってしまうそんな場面を、改めて感じさせてくれる季節の変わり目は慎重に過ごさなければいけない。 この、大切な日常を失くさない為には。
ごきゅごきゅと水を飲む真山さんの喉が鳴っている。 私は、その横顔をじっと見る。 口と、顎と、喉ぼとけ。長い首、少しだけ見える鎖骨。 綺麗な、横顔。 「・・・なに見てんの?」 恥ずかしそうに真山さんが私のほうを軽く睨む。 「観察しようと思いまして」 「すんなよ。気が散るから」 「えー?」 私が不服そうな声をあげると、真山さんは小さく「煩いよ」とつぶやきながら、私の頭を片手で掴んで頭ごと視線を外させる。 強引なのに、優しい、真山さん独得の力の強さ。 拗ねていたはずなのに、顔がついニヤついてしまう。
真山さんはそんな私の表情に気がつかない様子で、自分が飲んでいたペットボトルを私の目の前に差し出した。 「いる?」 喉が渇いている、いないよりも、さっき真山さんが飲んでいたペットボトルを飲むことが恥ずかしくて、私はぶんぶんと首を振る。 「じゃ、ちょっと持ってて」 私はそれを受け取ると、真山さんは立ち上がって、 さっきすこしだけ緩めていたネクタイを首からしゅるっと外して、ネクタイが沢山掛かっているハンガーにかけた。
しゅるっ。 私は、ネクタイをはずす時のこの音がすごく好きだ。なぜかとてもかっこいいと思う。 そういえば、前に一度だけ私の着ているシャツを褒められたことがある。 大きなリボンのついた、白いシャツ。 脱がせるために、リボンをほどく時のしゅるっという音がとても扇情的だと真山さんに言われた。 そのときはよくわからなかったが、今では真山さんの言っている事がよくわかる。 真山さんのネクタイを私の手でほどいてみたい。 昔、一回やらせてもらったけど、余計ぐちゃぐちゃにして二度とやるなよと怒られた。 しかし、そんなことで私はへこたれない。もう一度頼むつもりだ。
私を育ててくれた義理の父は、おおらかだけれども、きちんとした人だった。 背広で帰ってきて、義母を伴って部屋で着替え、部屋着で居間にやってくる。 決して居間でネクタイを外す事はなかったし、家族の前で変な風にだらしなくしたりしない。そんな人だった。 だから、大袈裟ではなく男性の裸を見たのは、真山さんが初めてだったのだ。 ネクタイの結びかたも、ネクタイを外すこの音も、全部この部屋で真山さんに教わった。 大きな男の人が部屋で無防備にくつろぐ姿も、ワイシャツを脱ぐ時の肩甲骨の綺麗な形も。
「・・・だから、そんなにじっくり見ないでくれる?」 はじめて見る、真山さんの顔だった。 「気にしないで下さい」 「なるんだって」 真山さんはすっかり部屋着に着替えていた。 グレーのトレーナーと黒いズボン。 手には愛用のマルボロ。 いつもの真山さん。いつもの部屋。
全てはいつもと変わらない。きっとこのまま変わらない。 変わるのは、きっと私のこの気持ちだけ。 もっと、深いところへ。 もっともっと、あなたをすきになる。
真山さんが近寄ってくる。 私は、へらりと笑った。 瞬間、真山さんの手が私のほうに伸びてくる。 大きなてのひらは、今度は私の目をすっぽりと隠す。
「あれ?真山さん・・・なんか痛いんですけど?」 「痛くしてるんだよ!お前が俺の方ばっかりじろじろじろじろ見るからさ!」 「あれ?これってアイアンクロー?」 「こめかみ痛い?ね、痛い?」 「あ痛っ!いたたたたた・・・真山さん、痛いです」 うひひひ。嬉しそうな真山さんの笑い声。 「ちょ・・・ちょっとやめてみませんか?真山さん」 「え〜?どうしよっかなー?」 「いたたた・・・。出来れば、手を離していただけるとありがたいんですが・・・」 「もうじろじろ見ない?」 「はい。可能な限りは」 「何だよ、その『可能な限り』っていうのは」 「だって・・・見えないと困るじゃないですか。色々と」 「セックスならお前が見えなくても可能だけどねー。やってみる?」 「それはちょっと・・・」 「何だよ、いいじゃん一回くらい。楽しいよ?すっごい」 「え?やったことあるんですか?」 「・・・・」 「いったーい!!すみません、もう言いません!!もう見ません!!」 「ホントだな?絶対見るなよ?」 「はい。柴田純、女に二言はありません」 「・・・よし。じゃあ、手離してやるよ」
私から遠ざかっていく、真山さんの体温。 私はゆっくりと目を開けようとした。 「柴田」 真山さんに注意をされて、今しがた約束した事を思い出した。 「え?じゃあ、どうすればいいんですか〜?」 私はなんとも情けない声を出す。真山さんがくっくと笑う声が聞こえた。 「じゃあ、手伸ばしてみな?」 私は言われたとおりにゆっくりと手を伸ばす。 すぐに、真山さんのにおいを感じた。抱きしめられる私の体。 「こうすれば俺が見えなくて、しかも寂しくないでしょ?」 私は笑った。 「・・・はい」 真山さんの体で遮られ、くぐもった声で。
それでも、私は目を開けて真山さんを見る。 目の前にある鎖骨の綺麗さは、特筆すべき事項だ。 小さく動いて、キスをすると真山さんがくすぐったそうに身をよじって、頭を撫でてくれた。
季節が変わって、初めて冬の楽しさを知るように、 大切なもののかけがえのなさは、きっと失くしてからしかわからないのだと思う。 それでも、私は失くしたくなどない。 この人を、この人と一緒にいるこの時間を。 だから、見失わないように、見過ごさないように。 毎日毎日を慎重に生きる。
一つ一つ噛み締めて、慎重に。 そうすればきっと何も見失わないから。
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