30:欲しいもの 

 

 

 

 

「5時15分、5時15分」

静かな弐係に近藤のパソコンの定時を告げる音声だけが響く。

いつもなら、それぞれが立ち上がり帰路に着くはずだが、今日は何故か誰も席を立とうとしない。

・・・いや、出来ないというのが正しいのだが。

それもこれも、弐係の中に漂うただならぬ緊張感のせいであった。

 

不機嫌なオーラを出す真山と柴田。

この二人の険悪な雰囲気に周りが呑まれてしまっているらしい。

いつもは煩いくらいに言い合いのけんかをする二人であるが、今日は珍しく黙り合いらしい。

それだけ、二人の怒りが深いということであるが。

 

意外にも、先に席を立ったのは柴田のほうであった。

荷物を少し乱雑にカバンに入れ、それを抱えて立ち上がった。

「・・・お疲れ様でした」

目の前に座る真山だけを無視するように、柴田は斜め前を向いて少し尖った口調で呟き、お辞儀を済ますと、

背を向けてすたすたとエレベーターに乗り込んでいった。

 

残された弐係の視線が、真山に集中する。

真山は眉間に皺を寄せたまま、しばらく目をつぶっていたが、机の上に投げ出していた足を床に下ろし、ゆっくりと立ち上がった。

 

「・・・なあ、真山さん」

こんなときに勇気があるのは、男よりも決まって女のほうだ。

真山が目線だけで彩を少し睨むように見た。

「放っといてええの?」

慎重に投げかけた彩の言葉だったが、真山の機嫌を損ねるのには十分だったらしい。

「何が?」

その言葉は、疑問形のようではあったが、その後に続く下手な干渉を全て拒絶するような言い方でもあった。

その少しも無駄のない拒絶の方法は、彼女に逢う以前の彼を彷彿とさせた。

 

拒絶であるのに、彼女がいないと駄目だと全身で叫んでいるような。

その悲しさに彩は苦笑して、そのまま言葉を返さなかった。

 

 

「真山君」

真山がエレベーターに歩き始めた時、彼を呼び止める声がした。

その声のする方向に、真山を含め全員の視線が集中する。

 

「今日、この後予定がなかったら、ちょっと付合ってくれるかい?」

視線の先には、野々村弐係長待遇の笑顔があった。

 

 

 

人気のない喫茶店に、野々村と真山はいた。

「すまんね。本当はちょっと一杯、って所なんだろうけど、医者と雅ちゃんに酒は止められててね」

にこにこと人の良さそうな野々村の笑顔にも、真山はうんざりといった表情で答えた。

「・・・なんすか?元係長」

「いや、特に用事はないんだけどね?定年でいなくなっちゃう前に、真山君とゆっくり話したいな〜って思っちゃってね」

嘘つけ、おっさんと言いたいのを堪えて真山は黙ってコーヒーをすすった。

野々村も言葉が続かなくて、コーヒーを飲んだ。

 

薄くて不味いそのコーヒーが、この店の人気のなさの最大の理由である事を感じたが、二人とも黙ってコーヒーを飲んだ。

 

「ああ、ファンタが飲みたいなぁ」

カップをソーサーの上に置いた野々村がぼそりと呟いた。

は?と言いたそうに、真山が野々村を見る。

 

「・・・真山君、僕と雅ちゃんの馴れ初め・・・聞きたい?」

「いいっす」

ウッキウキな野々村の提案を秒速で却下した真山だったが、野々村は聞かなかったことにでもしたかのように、ベラベラと喋りだした。

 

「僕と雅ちゃんが出会ったのはねー、ファンタが縁なんだ。

コンビニで同時にファンタを取ろうとしたチョーかわいい子がマイスイート雅だったの」

嬉しそうに話す野々村に真山はうんざりしながらも、この話を何処かで耳にしていたような気がした。

・・・ああ、柴田が羨ましそうに話してたっけ。

そんな事をいちいち覚えている自分に真山は苦笑いをしたが、それを野々村は態度の軟化だと思ったようで、

段々と前のめりで話してくる。

 

「でねー、そのときから僕のマイフェイバリットドリンクは、ファンタになったんだー」

そんなに笑顔で話されても、真山としては非常にどうでもいい話だった。

時計を見て、真山はわざとらしく声をあげる。

「あ、もうこんな時間。近未来の若奥さん、家で待ってるんじゃないっすか?」

「真山君」

「早く帰ってあげないと。あ、もしかしてもう帰宅拒否症ってやつっすか?」

おちゃらけて誤魔化そうとした真山に、野々村は真剣な顔で言った。

 

「欲しいものはね、手を伸ばさないと、届かないんだよ?」

 

何気ない、当たり前の一言だった。

しかし、真山にはどんな罵声よりも心に痛く響く言葉だった。

 

「・・・どういう意味ですか?」

すっと真顔になった真山に、野々村はまた笑って答える。

「いやぁ、僕が欲しいファンタに手を伸ばしたから、雅ちゃんと出会えた。

自分から手を伸ばさなければ、ファンタも雅ちゃんもゲット出来なかった、そういう意味だよ」

 

真山が一瞬、鋭い視線を野々村に向けた。

野々村は、その視線に気付かない振りをしてもう一度笑った。

 

 

しばらくの沈黙が、二人の間に流れた。

 

 

「・・・真山君、もしかして・・・」

急に声を掛けてきた野々村の方を、真山は今度はゆっくりと見た。

「・・・怖いのかい?」

真山はコーヒーを口に運ぶ。

「本当にそれを欲しがっているのは、自分じゃないのかもしれない。もっと他にいい人が手を伸ばすかもしれない。

・・・それの未来を、自分の手で潰してしまうのを恐れているんじゃないのかい?」

真山は、答えない。

代わりに、静かに野々村に尋ねた。

「・・・元係長は、怖くないんすか?」

「え?」

「そんなに若い奥さん貰って、怖くないんですか?」

 

 

何が怖いのかと問わなくても野々村はわかっていた。

真山が聞きたいことも、言って欲しい言葉も。

 

 

真山も本当はどうすればいいのかとっくにわかっていた。

ただ、柴田を想うが故に、こうして迷っていることも。

本当は何もかもわかっているのだ。

 

痛いくらに悩んで、迷って。それでもまだ踏み出せずにいる自分の弱さも。

何もかもはっきりとわかっているのに。

 

 

 

「・・・そこは、ワガママでいいんじゃないかなぁ」

優しい声で、野々村が言った。

 

「・・・え?」

「相手の事を思いやるのも、大切だけどね?本当に欲しかったら、ワガママになってもいいと思うよ?」

「・・・・・・・」

「人生に一度くらい、いいんじゃないかな?欲しいものを欲しいって言っても」

 

穏やかな野々村の笑みに、真山はまた、何も言えなかった。

「・・・まあ、年寄りの遺言だと思って考えてみてよ?真山君」

野々村が伝票を持って立ち上がった。

「本当に欲しいものなんて、人生のうちにそうそうお目にかかれないと思うよ」

真山の目が、さっきよりも少しだけ優しくなっているのを見て、野々村は満足そうに頷いた。

 

「あ!早く帰らないと雅ちゃんがチョー寂しがって泣いてるかもしれない。じゃ、真山君。お先に」

野々村はわざと明るく振舞うと、支払いを済ませて店を出て行った。

 

 

真山は、しばらく考え込んで、それからガラス越しの街をぼんやりと眺めた。

ポケットに手を入れて小銭があるのを確かめると、立ち上がり何かを探して店内を歩き出した。

 

公衆電話を見つけると、口の端だけでにやりと笑って、硬貨を数枚入れる。

もうすっかり指が覚えてしまった11桁の数字を押すと、聞きなれた声が耳元に流れ込んでくる。

 

「・・・ワンコールで出るんじゃないよ」

 

 

照れたような、怒ったようなその声をやっぱり、いつでも聞きたいと思う。

例え、それが自分のワガママでも。