17:血
「救急車〜!!」 その声を聞いたのは、どれぐらい前だろうか。 俺の腕の中でどんどん冷たくなっていった柴田が、その赤ランプの箱に入れられた。 ゆっくりと柴田が運ばれていくのを、俺はただつっ立って眺めていた。
一緒に乗っていけと誰かから言われた。 けれど俺の足は、体は、動かなかった。 電池の切れた人形のように。
無理やり押し込められた車の中は、狭くて。 俺のすぐ横に、柴田が寝ているのが見えた。
車の蛍光灯の光の中で、青白くというよりは、透けるような白さで横たわる柴田。 ロボットみたいに色々な機械を付けられている。 綺麗だ。 昔見た映画のようだと馬鹿げた事を一人思う。
そう、昔見たこの手の映画ではこうやって人は死んでいった。
「大変危険な状態です。今から緊急で手術に入ります」 手短な説明を医者が係長にしているのが、ぼんやりと聞こえた。 近藤さんは柴田の母親に連絡をしているらしく、ここにはいない。 俺がゆっくりと立ち上がると、係長の目線がこちらにうつってくるのが判った。 「・・・ま、真山君・・・」 心配そうな声を掛けてくれる係長に、俺は何とか答えた。 「便所、行って来ます」 自分の顔が泣いているのか、笑っているのかよくわからない。 けれども、係長の顔は俺を見て一気に曇っていた。
便所に入って手を洗う。 別に、小便がしたいわけではなかった。 ただ、一人になりたかった。それだけだ。
一つ咳払いして、洗面台に立つ。 鏡に映る自分の顔はまるで仮面を付けているように無表情で、気味が悪かった。 顔についていた自分の血が、涙の跡をくっきりと残している。 ああ、洗わなくてはと思って水道の蛇口を捻った。
俺が触ると、蛇口が赤くなった。 自分の掌を見ると、そこは血に染まっていた。 記憶を、少し辿る。
これは柴田の血だ。
柴田の体からどくどくと流れていた血。 今はすっかり乾いて黒っぽくなっている血。
蛇口から流れる水で手を洗った。 薄く紅い水が白い洗面台を滑り流れていく。
温かかったんだ。 さっき、俺の手に付いたばかりの柴田の血は、確かに温かかったんだ。 それから柴田の唇も。 久しぶりに感じた他人の体温だった。
だから、あいつが死ぬはずなんかない。 あんなに温かかったんだから。
どんなに手を洗っても、柴田の血が落ちた気がしない。 いや、落ちないでいて欲しかった。 俺はあの温かさを忘れたくない。
俺が忘れてしまったら、柴田が本当に死んでしまう気がした。
とぼけた声も、真っ直ぐな瞳も、よたよたと歩く姿も、臭い頭も、あの温かさも。 永遠に俺の前からいなくなってしまう。
怖かった。 失ってしまうのがとても。
やっと見つけたものだったから。 きっと、ほんとうに大切なものだったから。
職業上、人の死と近いところにいると思っていた。 死に鈍感でいなければならないところに俺はいたはずなのに。 沙織の時とちっとも変わっていない。 俺はまた、こうして悔いて泣くだけ。 何も出来ない自分を恨んで泣くだけ。
ガツンと大きな音を立てて、力いっぱい鏡を殴る。 鏡はそこからひびが入り、俺の拳には傷がついた。 そこから滴る血は酷く冷たかった。
柴田、生きて。 お願いだから、俺を置いていかないでくれ。
傍になんていてくれなくていいから。 生きていてくれるだけでいいから。
言っただろう? お前には生きていて欲しいんだよ。
「真山さん!!」 慌てた様子で近藤さんが入ってきた。 俺が振り向くと、近藤さんが少し驚いて眼鏡の奥の目を丸くした。 「・・・何?」 俺は涙も拭わずにその先を促す。 「あの・・・係長が・・・様子を見て来いって・・・」 近藤さんはどうしたらいいかわからずに困っているみたいだ。 「後追い自殺でもすると思った?」 俺は笑顔を作って精一杯の強がりを言う。 「・・・いえ・・・」 蛇口を捻るきゅっと言う音が深夜の病院の便所に響き渡る。
「・・・死ぬかよ」 小さな呟きは、近藤さんに聞こえたんだろうか。 別にどちらでも構わないけれど。 「・・・大丈夫です。柴田さんは、大丈夫です」 近藤さんが根拠のない気休めを言ってくれる。 俺はその言葉に笑って答える。 「あいつは殺しても死ぬようなタマじゃないしね」 「・・・はい」 近藤さんが俺の言葉に安心したように答えた。
「ね、近藤さん」 俺はゆっくりと出口の方に向かって歩き出した。 「はい?」 「あの鏡割っちゃってさ、謝っといてくれる?」 「え?私がですか?」 迷惑そうな近藤さんの顔を見て俺はくっくと笑った。 「俺、実は結構あちこち撃たれてたんだよね。ちょっと診てもらってくるわ」 近藤さんとすれ違うように便所を出た。 「ちょっ・・・真山さん!?」
あいつは死なない。 だから、俺も死ぬわけには行かない。
掌を滴る自分の血を握りしめて、俺はゆっくりと歩き出した。 今度こそ、ケリをつけなくてはいけない。
朝倉は、まだ生きている―
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