12:視界

 

 

 

 

「真山さーん」

 

その声を、きっと待っていたんだ。

あきれるくらい、長い間。

本当はそんなに長い時間ではないけれど。

待ってる時間というのは、こんなにも長いものなのかと苦笑した。

 

それでも。

まだ、その時が訪れる事はない。

 

 

柴田が永い眠りから目覚めたのは、あの悪夢のような夜から数ヶ月経った、冬の事。

眠り姫と呼ぶには相応しくない小汚い女は、目覚めた時にあの悪夢の記憶を全てなくしていた。

 

木戸や、係長や弐係の連中はとても言い難そうに俺の機嫌を伺いながらその事実を話した。

けれども、それを聞いた俺は何も感じなかった。

 

酷く当たり前のようなことに思えたし、夢の中の出来事かとも思った。

 

 

「逢いに行かなくていいのか」

 

口に出すヤツ、出さないヤツ。色々いたが、皆思いは一緒らしい。

 

「どうして俺が?」

 

気にならないフリは、得意中の得意。

出来るだけ冷めた表情で、目で、俺は答えた。

 

 

気にならないわけがない。

ならないわけないじゃないか。

本当は今すぐにでも顔を見たいのに。

 

いつまでも俺の記憶の中の柴田は、決まってあの敬礼をする。

俺の腕の中で、どんどん冷たくなる柴田。

仕方がないか。

最後に見た柴田がその姿なんだから。

 

あの日は、月がきれいで。

柴田の唇は思ったよりずっとあたたかくて。

苦しいけれど、きっとずっと忘れないあの風景。

 

「あ、真山さん。いたー」

少し間抜けな柴田の声が、少し可愛くて。

俺だけを捕らえている視界がとてもいじらしかった。

 

柴田の頭はやっぱり臭くて。

今、腕の中にいて消えようとしている命の正体が、紛れもなく柴田だということに気付かされた。

 

 

こんなの大事な女は、きっと他にはいない。

俺はいつも手遅れになってから大切なものに気付く。

 

 

 

朝倉、お前は俺を苦しめるのが本当に上手いね。

転んでも、ただでは起きない男だね。

いつも、どこを痛めつければ俺が一番痛がるかをよく知ってる。

 

 

柴田の退院の日は、調べなくてもすぐにわかった。

人の良い弐係の連中がわざわざ俺に聞こえるように騒ぎ立ててくれたから。

 

その日は、みんなに知られないように、一人遠くから柴田を見た。

樹のかげでひっそり、なんてまるで昔の少女漫画だと自嘲する。

ただ、それでも。

・・・逢いたかった。

それだけだ。

 

病院から柴田が出てくる。

いつもの鞄、いつものコート、いつもの柴田。

その姿を見ただけで恋をする少女のように心がきしむ。

あの日消えかけていた魂は、確かにそこにいるという事実に涙が出そうになった。

コートの襟を立てて口元を隠す。

押さえ切れなさそうな想いを閉じ込めるため。それから下手な変装のため。

変装ならいくらでも、もっと上手く出来るけれど。

あいつに気付かれなければ意味はない。

 

そう、俺はずっと待っていたんだ。

俺を呼ぶ、あの少し間の抜けた声を。

俺に向かって走ってくる、あの小汚い女を。

「柴田は記憶をなくした」

何回も何回も言われたけれど、俺は頭の何処かで信じてなどいなかったのだ。

忘れるはずなんてないだろう?

あの時、あんなに強く抱いた腕の力も、何度も呼んだその名前も、強く願った想いも、彼女に届いていないはずなんてないのだ。

 

けれども、それは、ほんの一瞬だった。

柴田は病院から出て、弐係のメンバーに短いお礼を言うとすぐにタクシーに乗り込んでしまった。

 

 

俺のことなんて視界にも入っていない。

それが、現実だった。

 

 

 

弐係の連中が気付く前にと、俺は早々にその場を離れた。

 

「真実は、必ず一つなんです」

 

いつか聞いた柴田の澄んだ声が頭に響いた。

「柴田が記憶をなくした」のは、やはり紛れも無い真実だった。

俺のことなんて綺麗に忘れている柴田が、今の「真実の姿」。

 

やるせなかった。悲しかった。

柴田が俺の腕の中で眠りについたときよりも悲しかった。

 

いくら俺が逢いたくても意味はない。

あいつには、俺の記憶なんてないのだから。

 

「真実なんて、曖昧な記憶の集合体」

 

いつか自分が言った言葉を思い出した。

 

「記憶の持ち主を消せば、真実なんて消えてしまう」

 

言葉が、自分に返ってきた。

あの悲しい出来事でさえも、記憶のない柴田の中では「真実」ですらないのか。

あの中で、俺がお前を大切に想った事でさえ。

なによりもお前に生きて欲しいと願った事でさえ。

 

 

本当に、そう思ったはずなのに。

お前が生きていれば、それだけでいいと。

けれど、実際生き残った俺はとても貪欲で。

俺を憶えていて欲しいと思う。

忘れないでいて欲しいと思う。

悲しい記憶でさえも、共用していたいと思うのだ。

 

それから、もっと。

言い出せば、キリがない。

 

そうか。

いつの間にか、俺の中はおまえでいっぱいになっていたんだな。

 

 

その日が来るなんて保証はない。

もしかしたら来ないかもしれないし、来ても10年後、20年後の遠い未来かもしれない。

もしかしたら俺が死んだ後かもしれない。

 

でもそれでも。

俺はずっと待っているんだ。

お前に名前を呼ばれる日を。

俺を思い出してくれる日を。

 

 

それでも。

まだ、その時が訪れる事はない。