08:唇

 

 

 

真山は寒いのが嫌いだ。

暑いのも特別好きって言うほどでもない。

けれども、寒いのは大っ嫌いだ。

職場が警視庁でよかった。北国に飛ばされる心配がないから。

寒くなると真山の眉間の皺が2〜3本増える(当社比)。

そして猫背になる。

それから動きたくなくなる。

これは真山自身ではなく、柴田が気付いたのだったが、

それを発見した時に「動いたら温かくなるのに」と余計な一言を言って真山に叩かれたのは別の話だ。

 

今日もとても寒い。

それはイコール、真山が動きたくないと言う事だった。

幸い仕事は休みで、柴田も事件を抱えておらず、真山は柴田とのんびりした週末を自宅で過ごしていた。

柴田は前日買った小説を座布団にすわって熱心に読みふけっていて、

真山はざっとその辺を掃除して、それが終わってからはぼんやりと煙草を吹かしていた。

 

「ねー、柴田」

「はいー?」

真山に声を掛けられても、柴田は顔を上げない。

ベッドに腰を掛けている真山も、柴田ではなく宙をぼんやりと眺めていた。

「ノド渇かない?ノド」

「・・・そう言われれば・・・乾いた気がします」

「でしょ?コーヒー飲みたいとか思わない?」

「ああ、いいですね。コーヒー」

「ね?じゃあ、よろしく」

「え?」

ここで、柴田が初めて本から顔を上げた。

真山はゆっくりと立ち昇る煙を目で追っていた。

「あの・・・」

縋るように柴田が真山に言う。

「だから、コーヒー。たまにはいいでしょ?いっつも俺が淹れてやってんじゃん」

「え・・・?でも・・・」

柴田は困惑していた。

「何だよ。ヤカンの場所はわかるでしょ?あとコーヒーは出しっぱなしだし・・・」

「そうじゃなくってですね・・・」

「ん?」

 

遠慮がちに、柴田は言った。

「私・・・コーヒーって淹れた事ありません」

 

「は・・・!?」

その言葉に真山はしばし固まり、それから信じられないと言ったように柴田を見た。

「お前コーヒーも淹れた事ないの?何で?」

「え?何でと言われましても・・・」

「自分の家で飲まないの?」

「母が淹れてくれましたから・・・」

「え?いっつも?」

「はい。母はよく気がつくんですよ」

「・・・じゃなくってさ、自分で淹れようとか思わなかったの?」

「うーん・・・そんなにコーヒーを飲みたくなることってないのかもしれません。ほら私、どちらかと言うと紅茶派ですし」

「・・・じゃあ、紅茶はもちろん入れたことあるんだよな?」

「・・・・・・」

「ないのかよ!!」

「そんなにおかしいですか?」

「おかしいよ!!」

「でもコーヒー淹れる事が出来なくて困った事ないですよ?」

「そういう問題じゃないよ」

「えー、淹れられたほうがいいんですかね?」

「そりゃそうでしょう。ってか淹れられなかったら問題だよ?」

「問題ですか?」

「そ。旦那様にコーヒーの一つも淹れられない奥様ってかーなり問題だと思うけどねー」

「え?そうなんですか?」

「お袋さんにしてもらってるみたいに、お前旦那様にいっつもコーヒー淹れさせんの?かわいそー。同情しちゃうね、そいつに」

「『かわいそう』・・・」

「俺だったら絶対嫌だね。そんな奥さん」

「・・・真山さん」

「ん?」

「私にコーヒーを淹れさせてください!!」

「お、やる気になった?」

「はい!柴田純、若奥様に向けてやる気満々です!!」

「がんばってねー。まずかったら殺す」

「任せてください!美味しくて真山さんがビックリしちゃうようなのを淹れてきますね!」

「はいはい。期待してないけど」

「では、行って参ります!!」

柴田は真山に向かってぴしっと敬礼を一つして、それからキッチンに向かった。

 

ああ、これで俺が動かなくても済む。

真山は満足そうな表情を浮べて、また煙草を吸った。

柴田の淹れるコーヒーに不安材料がないかと聞かれたら、むしろ安心材料がないくらいなのだが、

美味いのが淹れられるようになるまで、何回でもやり直させたらいい。

むしろそれが柴田のためだと一人頷いた。

 

本日5本目のその煙草が丁度終わった時だった。

「キャ!!」

柴田の小さな悲鳴がキッチンから聞こえた。

「どうしたー?」

煙草を灰皿に押し付けながら、真山がキッチンの方に向かって大きな声で尋ねる。

「まやまさぁ〜ん!!」

泣きそうな柴田の声が聞こえて、真山はやれやれとベッドから立ち上がった。

 

首をまわしながら、真山はゆっくりとキッチンに向かう。

「柴田ー?」

真山が声を掛けると、柴田がこっちを向いた。

「真山さーん」

それから情けない声。

「どうした?」

「・・・やけどしちゃいましたー」

柴田が右手の人差し指を真山の目の前に突き出す。

「馬鹿。子供じゃないんだからさ、熱いもんには気をつけろよ」

「やっぱり私には奥様は無理なんでしょうか・・・?」

「知るかよ。いいから、早く冷やしな」

「え?アイスコーヒーがいいんですか?」

「そっちじゃねえよ、馬鹿。指。指冷やせよ」

「あ、そっか・・・やけどした時には冷やすんでしたね」

「そ。早くしないと酷くなるよ?」

「はーい」

 

水道を捻るときゅっと高い音を立てて水が出てくる。

さすがにこの季節なので、充分に冷やされた水で柴田は指を冷やした。

「大丈夫か?」

真山が訊くと、柴田は黙って頷いた。

「コーヒーくらい一人で淹れろよなー。鈍臭すぎ、お前」

「そんなこと言わないで下さいよ〜」

「お前さ、アレだろ?コーヒー淹れられないくらいだから、メシとかも作れないでしょ?」

「・・・なんでわかるんですか?」

「やっぱり・・・お手上げだね。終わってるよ?キミ」

「いいんです。もう・・・」

「お?あきらめたの?」

「私・・・一生結婚なんて出来ないんだ・・・さようなら、旦那様・・・」

「あー、はいはい。泣かないの」

「ううう・・・もういいんです」

「あれじゃん。努力したら出来るようになるでしょ?いくらお前でも」

「…ですかね?」

「そーそー。そしたらモノズキな旦那様が貰ってくれるって。ね?」

「はい。頑張ります」

「うん。じゃあ頑張ってもう一回コーヒー淹れるのにチャレンジしてみようかー?」

「・・・はい」

 

柴田が蛇口をひねって水を止める。

「痛み、引いてるか?」

「はい。もう痛くないです」

その言葉に、真山は納得したように軽く頷いた。

「・・・あ!」

突然柴田が何か思い出したように言った。

「何?」

「火傷じゃなくって、指を切ればよかったですね。包丁か何かで」

「何言ってんの?」

真山は怪訝な顔したが、それとは対照的に柴田はにへらと緊張感のない笑顔になって言った。

「だって、よくあるじゃないですか。テレビとかで」

「は?」

「奥様が指を切って、旦那様がそれを舐めたりするの。きゃ〜!!」

柴田は一人で想像して悦に入ってるらしい。

顔を赤らめてくねくねしてる柴田を真山は冷めた目で見た。

「ばっかじゃない?」

「えー?だってちょっと憧れですよー。大丈夫?とか心配してくれたりして」

「ね、大丈夫?アタマ」

あーいないかなー。そんなステキなジェントルメンな旦那様」

「いるわけないじゃん」

「いるかもしれないじゃないですかー」

「どこに?ねぇどこ?」

「・・・知ってたら今頃お嫁にいってますよ」

「それもそうね」

「・・・はぁ。どこにいるんでしょうか?旦那様」

「知らねー。っていうかいるの?ホントに」

「いますよー。きっと・・・」

「へー」

「あ、気になります?」

「何で?」

「・・・別にいいです」

 

真山とのやり取りで少ししゅんとなった柴田はやかんにもう一度水を入れて、コンロの火をつけた。

柴田はしばらくコンロの火を見つめていたが、火傷した自分の指に視線を移した。

真山はそんな柴田を隣で黙って見ている。

まだ少しだけ紅くなってる指を、柴田は寂しそうに見ていた。

「・・・まだ痛いか?」

真山の問いかけに、柴田は首を横に振る。

それから、ちょっとだけ潤んだ目で真山を見上げた。

「私の旦那様・・・いないんでしょうか?」

真山が大きくため息をついた。

そして、柴田の右手の手首を優しく掴む。

「仕方ねぇな」

文句のように呟くと、真山は柴田の指をそのまま口に含んだ。

「!!真山さん・・・な・・・」

柴田の顔を見る見る紅く染まる。

真山はそんな柴田の顔を見てにやりと笑った。

「私、けがしてないんで・・・あの、やけどなんで・・・」

誘い上手のくせに、甘えベタな柴田を真山は指を咥えたまま、くっくと喉で笑う。

柴田は恥ずかしさと戸惑いで泣きそうになっていた。

「真山さん・・・あの・・・」

そんな柴田を尻目に、真山は口の中の柴田の指を舌先でペろりとなめた。

「ひゃ!」

柴田が小さく声をあげる。

予想通りの柴田の反応がおかしくて可愛くて、真山は調子に乗って何度も柴田の指を舐めた。

その度に柴田は小さな声をあげて縮こまった。

もうだめだ、もう限界だ。

柴田は首を横に振った。

「まやまさん・・・」

柴田の限界を悟った真山が、最後に柴田の指を吸ってちゅっと言うともに開放した。

「・・・ど?気持ち悪いでしょ?指咥えられるのって」

勝ち誇ったように真山が言った。

柴田は赤い顔で惚けながらも首を横に振った。

「気持ち悪くはなかったです・・・むしろ気持ちいいといいますか・・・」

「は?」

「知りませんでした。男の人の唇って柔らかいんですねぇ」

「何言ってんの?何回もしてんじゃん。キス」

「あー、そうなんですけどね。改めてそう感じたというか、今まで気付かなかったと言うか・・・」

「・・・へぇ」

 

もう顔の赤さは引いてたが、まだ潤んでる目で柴田はもう一度真山を見上げた。

ゆっくりと手を伸ばし、柴田の指が真山の唇に触れた。

愛おしむようにゆっくりと柴田の指が真山の唇の上をなぞった。

真山は凍りついたように動けなかった。

 

「さっきね、ぴりぴりしたんです」

「何が?」

「指です。まやまさんに咥えられてる指がぴりぴりしたんです」

「やけどしたからでしょ?」

真山の言葉に柴田は首を振る。

「きっとね、指が心臓になっちゃったんですよ」

「はぁ?」

「真山さんと一番近かった指が、心臓になっちゃってどくどく言ってたんだと思います」

嬉しそうに言う柴田を見て、真山は首を捻った。

 

「あぁ、やっぱり旦那様にはああいう風に欲しいです」

「懲りないね、お前も」

「うふふふふ」

「だからそんなヤツいないんだって。漫画の見過ぎ」

「でも、真山さんはやってくださるんですよね?」

「は?やらねーよ」

「だって今・・・」

「お前に気持ち悪さを教えてやったの」

「逆効果でした」

「・・・みたいだね」

「あー、でもいいや。うん」

「ん?」

「今、真山さんにしていただいたから、もういいです」

そう言って柴田はえへへと笑った。

真山は少し困ったように笑うと、柴田の頭をぽんぽんと叩いた。

 

「お湯、沸いてるけど」

「はい。コーヒー淹れますね」

「やけどすんなよ」

「はい・・・これくらいでいいですか?」

「コーヒーもうちょっと入れて?」

「これくらい?」

「うん。そう、そんなもん」

「・・・あ」

「何だよ」

「こうしてると、なんだか夫婦みたいですね・・・いたっ」

 

 

真山は寒いのが嫌いだ。

寒いと動きたくなくなるけれど、柴田に何かをさせると余計に手間がかかるということに今日やっと気付いたので

真山は今後は寒くても自分でやろうと決めた。

 

それは、真山が少し大人になった、ある日の午後のこと。